通史一覧

時代の変化と都市づくりのあゆみ

本ページでは、慶応4年(1868)7月、東京府が設置されて以降の東京の都市づくりの変遷を、一定の時代区分に対応して整理している。
ここでは、社会背景、エポックとなった出来事に着目して時代区分を試み、前史を含め、7つの時代区分を行っている。各時代の社会背景と都市づくりの大きな動向を示すと以下のとおりである。

以降、それぞれの区分ごとに、【社会背景と都市の様相】、【都市づくりの構想・計画とそれを支える制度】、【代表的な都市づくり】に即して大局的な整理を行った。

前史1868〜1918年(慶応4〜大正7年)

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帝都の顔づくりと市区改正設計

明治政府の威信をかけた西欧的な都市づくりが芽生える。銀座の不燃化、鉄道の導入と東京駅の設置、鉄道・路面電車の整備、上下水道の整備などが行われた。

Ⅰ期1919〜1945年(大正8〜昭和20年)

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「都市計画」制度の確立と震災復興そして戦時下の時代

都市計画法(旧法)が制定。関東大震災からの復興を経て現代の東京の基礎となる計画・事業が展開される。しかし、期の後半は徐々に戦時色の濃い時代となる。

Ⅱ期1945〜1955年(昭和20〜30年)

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戦後の復興都市づくりの時代

戦災により再び灰塵と化した東京を都市づくりの千載一遇のチャンスと捉え、首都圏を視野においた東京の復興が目標とされた。

Ⅲ期1956〜1965年(昭和31〜40年)

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高度経済成長と大東京を見据えた都市づくりの時代

オリンピック開催をはずみに、国の法制(首都圏整備法など)と機を合わせ、将来を見据えたインフラ計画の策定、見直し、都市改造事業が推進される。

Ⅳ期1966〜1980年(昭和41〜55年)

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巨大都市東京の深刻化する都市問題への対応の時代

戦後の高度経済成長の歪みが顕在化し、過密、公害・環境、防災等に対応した都市づくりの時代。オリンピックの反動もあり財政状況は深刻化し、基盤整備が遅滞した。

Ⅴ期1981〜1999年(昭和56〜平成11年)

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一極集中から多心型構造への再編の時代

多核多心型の都市構造の考え方のもと、副都心、多摩の心に受け皿をつくる都市づくりが展開される。

Ⅵ期2000年〜(平成12年〜)

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環状メガロポリス構造と国際競争力強化の時代 

アジア都市の台頭もあり、国際的な都市間競争が激化。首都移転論に対抗する環状メガロポリス構造のもと、民間活力の活用による都市再生が積極的に行われる。

前史1868〜1918年(慶応4〜大正7年)帝都の顔づくりと市区改正設計

慶応4年(1868)、江戸は東征軍の軍政下に置かれ、同年4月に江戸開府事務が始まる。7月には江戸を東京と称する詔が発布され江戸府は東京府に改称され、10月には大和郡山藩上屋敷を接収して東京府庁が開庁、東京府職制が公布され、府制事務が始まった。
明治11年(1878)の郡区町村編成法に基づき東京府は15区6郡に区分された。
その後明治22年(1889)の市町村制施行により、15区の範囲に基礎自治体としての東京市が設置されたが、市政特例として市長は置かず、市長の職務を府知事が執行した。明治21年(1888)の市区改正は、この東京市、15区の範囲の市街地改造を目指したものである。
その後、明治26年(1893)4月、多摩地域(西多摩郡・南多摩郡・北多摩郡)が神奈川県から東京府に移管され、ほぼ現在の東京都の範囲が確定した。また、明治31年(1898)10月には市政特例が廃止され、東京市は一般市となり、府庁舎内に東京市役所が開庁された。

慶応4年 (1868)
江戸を東京と称する旨の詔発布、「東京府」の設置
明治11年(1878)
郡区町村編成法の施行 東京府は15区6郡に区分 
明治21年(1888)
東京市区改正条例の公布
明治22年(1889)
東京市政施行(市長を置かず、市長の職務を府知事が行う市政特例)
明治26年(1893)
多摩地域(西多摩郡・南多摩郡・北多摩郡)が神奈川県から東京府へ移管、
ほぼ現在の東京都の区域が確定
明治27年(1894)
日清戦争開戦
明治31年(1898)
東京市が「市政」による一般市となる(初代東京市長松田秀雄就任)
明治37年(1904)
日露戦争開戦

社会背景と都市の様相

慶応4年(1868)7月、東京府が設置され、東京は事実上日本の首都となったが、当時の東京は江戸という巨大な城下町の骨格の上に成り立っていた。
当時の人口は正確には不明だが、町人の人口は50万人を下回ることはなかったと推定され、全体としては少なくとも110万人程度はいたとされる。人口は幕末・維新の混乱期に、武士が本国に帰るなどして明治初頭には一時期半減し、50万人余となる。しかし、明治16年(1883)には約100万人に回復、明治末には270万人に達した。
江戸の面積の7割近くを占めていた武家地は新政府によって没収され、公用地や高級官僚・公家の宅地として転用され、他の周辺部の広大な屋敷跡は「桑茶政策」によって農地に転用された。これに対し、従来武家地の3割程度しかなく非常に高密な町人地であったところは、明治に入ってからも相変わらず高密な状態であり、市街地自体は江戸期の形態のままであった。
明治新政府の最大の課題は、安政の不平等条約の改正を要求するにふさわしい近代国家という体面を繕うことであった。
そのため政府は、西欧事情を探るべく明治4年(1871)10月、岩倉具視を全権大使とした使節団を欧米に派遣した。そして、使節団の進言に基づき、日本の西欧化を進めることとし、教育、科学技術等の専門家(いわゆるお雇い外国人)を招請し、同時に首都東京を近代都市として改造し、面目を施すことを模索し始めた。
明治新政府が考えた近代都市の要件は、広幅員の道路網、鉄道および路面電車等の交通網、上下水道、公園緑地、河川港湾、建物の不燃化などの都市施設の完備であり、新政府はこれらを早急に整備することに腐心した。
市街地については、大火を契機とした銀座煉瓦街や丸の内の軍用跡地における商業地などの部分的な市街地改造を行ったが、既成市街地の大半は、江戸の区割を継承した街並みのままであった。

都市づくりの構想・計画とそれを支える制度

市街地の不燃化

明治5年(1872)2月、和田倉門付近にあった民部省から火の手が上がり、現在の大手町から銀座京橋一帯が消失する大火となった。新政府はこの機を逃がさず、銀座を西欧化の象徴として煉瓦街に改造する計画を定め、明治5年3月2日、東京を煉瓦建築により不燃都市化すべき布告が、太政官から東京府に対して発せられた。
不燃都市化の計画が明治も比較的早い頃に急がれた理由は、第一に、明治新政府の示威、特に条約改正の当面の課題として対外的に首都の面目の一新を図ること、第二に、防火対策、交通対策等の充実を図ること、第三に、文明開化、旧物一新を徹底しようとする明治政府の所在地である東京を江戸的色彩を払拭した都市として再編することにあった。
時の東京府知事由利公正(第4代東京府知事)らは、大火で消失した銀座、木挽町、築地付近一帯に、道路の拡幅・改良と家屋の不燃化(煉瓦造)を計画した。建設計画の立案にはイギリス人建築技師T.J.ウォートルス(Thomas James Waters)があたった。
この事業は、建設資金を大蔵省が、工事を東京府が担当して進められ、銀座については明治10年(1877)に完成した。しかし、他の地域については、明治6年(1873)以降、財源の問題や地域住民の反対により次々と中止が決定された。

官庁集中計画

明治初期、新政府の各役所は、旧大名屋敷に分散していたため連絡等に不便をきたしていた。明治12年(1879)、井上馨は外務卿に就任するとすぐさま、新たな官庁街の実現に向けての検討を行った。井上は、銀座煉瓦街の建設を進めた中心人物の一人でもあり、都市改造に強い意欲を持っていた。外務卿就任早々、臨時建築局を組織し、自らその総裁にも就任し、計画推進のためドイツ人建築家へルマン・エンデ(Herman Ende)と彼の同僚のウィルヘルム・ベックマン(Whilhelm Böckmann)を招聘した。ベックマンは現地調査の後、明治19年(1886)に日比谷を中心とし銀座あたりに中央駅を置き、駅前を含む大三角形の街路網を設定し、そこから博覧会場を経て国会に通じる道沿いに各官庁を配するというバロック都市を想起させる大胆な発想の官庁集中計画案を策定した。しかし、この案は財政的な問題もあって新政府に受入れられず、翌20年、井上が不平等条約撤廃不成功の責任で退陣するとともに縮小され、結果的には国会議事堂など一部施設の配置計画にいかされた程度で終焉した。

東京市区改正

銀座煉瓦街が完成した後も東京の都市構造は基本的には変わらず、大火は毎年のように起こっていた。明治12年(1879)に第7代府知事に就任した松田道之は、翌13年に東京の改造方針を述べた「東京中央市区画定の問題」を発表し、新聞広告で広く意見を求めた。
松田は、改良事業を中央市区に限定し、都心に豪商を集めるとともに、道路整備、築港を柱とする東京の未来像を示した。松田の意思を継いだのが後任の第8代府知事芳川顕正である。芳川は、明治17年(1884)11月に、市区改正草案ともいうべき「市区改正之儀ニ付上申」を内務卿山縣有朋に提出した。芳川は、翌18年2月には「品海築港之儀ニ付上申」を提出した。
この具申を受けて、明治17年12月、山縣は内務省に東京市区改正審査会を設置し、渋沢栄一ら財界人を含めて意見書の内容について検討を加えた。そして、パリ改造の例に倣い東京を整然とした美しい西洋風の街に改造しようとする審査会案がまとめられた。
その後、都市計画を巡る政府内の抗争で計画は一時スローダウンする。明治21年(1888)3月、政府は東京市区改正条例案を元老院会議に上呈するが否決された。しかし、政府の決断により、閣議で内相山縣有朋、蔵相松方正義の連署の請議を裁可して、同年8月、東京市区改正条例が勅令として公布された。この条例は、首都として発展をみせ始めていた東京の市街地を計画的に改造することを目的としたもので、市区改正の設計および毎年度施行すべき事業は国の機関である東京市区改正委員会の議を経て内務大臣が内閣の認可を受けて決定すること、また当該事業は東京市長が実施し、それに要する費用は東京市の負担とするが、その財源の一部にあてるため特別税の創設を認めるとともに、官有河岸地の下付を行うことなどを定めていた。続いて翌22年1月には、東京市区改正土地建物処分規則が公布された。
市区改正条例に基づく市区改正計画(旧設計)案は、明治22年(1889)5月、内閣に承認された。その内容は、東京市全区(15区)を対象にして、道路、河川、橋梁、鉄道、上下水道、公園、火葬場、墓地などに関する整備計画を定めたものである。しかし、事業量が膨大になりすぎたこともあって修正を余儀なくされ、明治36年(1903)に緊急不可欠な街路等に絞った修正案(新設計)が告示された。
新設計による施設整備事業は大正8年(1919)に都市計画法が公布されるまで続くが、当初の計画をほぼ完成できたのは、公衆衛生や消防水利の確保の観点から優先して行われた水道事業と、道路拡幅と路面電車の軌道敷設を抱き合わせ、事業費の半分を電鉄会社に負担させる方式(いわゆる電鉄納付金方式)による道路拡幅事業であった。
特に、道路拡幅事業は、路面電車敷設予定路線を中心に123路線、延長約175kmにのぼった。この内、銀座通りから続く日本橋通りも明治42年(1909)までに幅員15間(27m)に拡幅され、この時日本橋も架け替えられて明治44年(1911)に石造アーチ橋に生まれ変わった。橋の設計は、東京市技師樺島正義と米元晋一、橋梁部の装飾は建築家の妻木頼黄の手による。
下水道計画については一部で実施されたものの未完成であり、市場、築港についての計画も未着手のまま中止された。

代表的な都市づくり

鉄道敷設

この時期の都市基盤整備の代表は鉄道敷設である。
明治5年(1872)、わが国最初の鉄道が、明治政府による官設・官営により新橋〜横浜間に開通した。その後、官鉄の規格を用いることを条件に、民間資本による私鉄にも幹線鉄道の建設を許可する方針が示され、明治14年(1881)には日本鉄道会社が設立、明治16年(1883)に上野〜熊谷間、明治18年(1885)に赤羽〜品川間の運転が始まり、東海道方面と東北方面とが結ばれることになった。
明治22年(1889)には甲武鉄道が新宿〜立川間に鉄道を開業した。当時の東京では新橋、飯田町、上野、両国橋の4つの駅がターミナル駅として活躍するようになったが、これらに集まる路線はすべて蒸気鉄道であった。
この中で、甲武鉄道は市内交通機関としての性格を強め、明治37年(1904)に飯田町〜中野間の電化工事を完成させた。電車の運転区間は日露戦争後一挙に増え、明治39年(1906)公布の鉄道国有法により鉄道が国有化された後、明治42年(1909)には当時の品川線(品川〜新宿〜赤羽間)と豊島線(池袋〜田端間)に電車が運転を開始、東北本線上野駅にも乗り入れを始めた。
その後も、電車の運転区間の延長は、市区改正設計を受けた中央停車場としての東京駅の建設と並行して進み、大正3年(1914)の東京駅開業時には東京〜横浜間の電車運転が開始、大正8年(1919)には中野〜新宿〜東京〜品川〜新宿〜田端〜上野間で「の」の字運転が開始された。
一方、鉄道国有法により幹線鉄道網を形成する多くの私鉄が国に買収され、鉄道院による統一的な運営が行われるようになり、幹線は官鉄、局地的な輸送は私鉄という棲み分けが行われるようになる。その後、軽便鉄道法(明治43年)、軽便鉄道補助法(明治44年)もあり、圏域内の貨物・旅客輸送、有名寺社への参拝客をあて込んだ私鉄の敷設が活発になり、大師電気鉄道、東武鉄道、玉川鉄道、王子電気軌道、京成電気鉄道、京王電気鉄道など、現在に繋がる鉄道の骨格網が形成された。

市内交通の整備

市内交通については、明治15年(1882)頃から整備された鉄道馬車が充実している分だけ、東京では路面電車の実用化が遅れた。
明治36年(1903)、東京馬車鉄道が東京電車鉄道に衣替えして、全国8番目の電車として開業すると、東京市街鉄道、東京電気鉄道も運転を開始し、市内の路面電車網はまたたく間に広がったが、3社間の乗り換えができないといった不便さもあった。
明治44年(1911)、時の東京市長尾崎行雄の「公共乗物は公共機関で」という意向により、東京市は3社統合後の東京鉄道会社を買収し、東京市電が誕生した。買収時点での軌道全長は約190km、車両台数は1,054両で、1日あたりの乗客は約50万人に達していた。

銀座煉瓦街の建設

明治5年(1872)2月に発生した、現在の大手町から銀座京橋一帯が消失する大火を契機に、新政府は市街地の不燃化を計画した。
建設計画にあたったイギリス人建築技師T.J.ウォートルスは、銀座一帯の市街地改造を提案し、計画的な街路割りに再編し煉瓦造の不燃建築とし、英国ジョージア風の街を出現させるという計画を立案した。銀座地域については、銀座の中心を占める大通りを幅員15間(27m)と広げ、中央に8間の車道をとって並木を境に両側3間半ずつの歩道をとった。両側の家屋は、通りに面する間口全体を1棟の2階建ての煉瓦造とし、壁を境に4〜5店舗に区分する長屋形式とした。外壁は化粧漆喰塗が大半で、2階前面に張り出すバルコニーを支える列柱が連続して立つ幅1間の歩廊を形成した。この事業は、建設資金を大蔵省が、工事を東京府が担当して進められ、銀座については明治10年(1877)に完成した。
完成時には銀座は日本橋に比べ格の低い商店街であり、煉瓦街には空き家も目立ったが、次第に店舗のショーウィンドウには西欧化の波に乗った新商品があふれる文明開化を象徴する新しい街として人気を博した。その結果、銀座は東京で最もモダンな場所として知れ渡り、明治20年頃には新たな商業地としての地位を確立していった。

丸の内開発と東京駅(中央停車場)の建設

丸の内地区は、明治初期は陸軍等の施設用地として利用されていたが、陸軍の麻布移転を機に跡地を一括して民間に払い下げることになり三菱財閥が入手した。この地は、明治23年(1890)、市区改正条例委員会案に従って兜町に次ぐ業務・商業地とされ、三菱の手によって煉瓦造や石造の近代的な商業ビルが次々と建設された。明治27年(1894)には日本初のオフィスビルである煉瓦造地階付3階建ての三菱一号館が完成、翌28年には石造2階建ての二号館、29年には煉瓦造三号館が次々と建てられ明治43年(1910)までに13棟の建物が建ち並び、後に「一丁ロンドン」と称されるように、丸の内は新しい業務・商業地として整備された。これらの建築設計は、工部大学校造家学科の教官として招聘され、多くの洋風建築を手掛けたイギリス人建築家J.コンドル(Josiah Conder)により行われた。
一方、東京の市区改正計画の一環として、新橋・上野間の鉄道建設をベルリンの高架鉄道に倣って煉瓦アーチ式高架橋で行うことが定められ、関連して明治23年(1890)9月、東京市の中央に停車場を建設することが決定された。高架鉄道建設事業は、日清戦争などの影響もあって建設が遅れたが、明治33年(1900)、ドイツ人技師F.バルツァー(Franz Baltzer)の具体案に基づいて芝新銭座〜永楽町間の高架線工事に着手した。次いで明治41年(1908)、バルツァーの提案した乗車口、降車口、皇室専用口がそれぞれ独立した和風意匠の駅舎案をたたき台とし、辰野金吾が設計し直した中央停車場の建設に着手、大正3年(1914)12月に竣工し、東京駅と命名され、同月20日から営業を開始した。
なお、丸の内地区内には、中央停車場と皇居を結ぶ道路が計画された。いわゆる行幸道路である。幅員40間(約73m)で、大正2年(1913)に三菱が道路用地を市有地と交換し、当初は堀手前で行き止まりであったが、後の震災復興事業の一環で皇居側と繋げるため震災時の瓦礫等を埋立て、大正15年(1926)8月に完成した。この道は、歩車道分離、街路樹の植栽のほか、街路灯が設置された東京の象徴的な道路となり、天皇が東京駅から列車で各地に行幸される際や各国大使の信任状の奉呈の際に利用され、現在も東京駅とともに首都東京の顔となっている。

近代的な都市公園の成立

わが国の公園制度の発足は、明治6年(1873)の太政官布達によって、荒廃した旧社寺の境内を公園とする決定を出したことに始まる。これにより全国で27か所、東京には、浅草、上野、芝、深川、飛鳥山の5か所の公園が生まれた。
しかし、これらの太政官布達公園は、レクリエーション地としては機能しても、市街地の改善には寄与するところが少なかった。都市づくりの一環としての公園整備については、市区改正条例を待つことになる。
明治22年(1889)の市区改正計画(旧設計)では、49公園、面積にしておよそ1,005,100坪(約332ha)の公園が議定された。当時、東京の公園は、太政官布達による最初の5公園に加えて、明治14年(1881)、麹町日枝神社の出願によりその境内地に制定された麹町公園、明治19年(1886)、芝愛宕神社が同様の理由で愛宕公園となっており、東京府内の公園は7か所、面積およそ140haの状況にあった。
市区改正公園については、明治23年(1890)に坂本町、清水谷の2公園が開園、下谷、緑町の2公園の用地が、東京府から、誕生したばかりの東京市に移管された。また、翌24年には湯島、白山の2公園が開園した。しかし、以後は日清戦争による財政逼迫のためもあり、計画はなかなか進まない状況であった。このような状況の中、明治35年(1902)には市区改正計画は縮小されることになり、翌36年3月、東京市は市区改正の修正案(新設計)を告示した。新設計では、公園については22か所、667,200坪(約220ha)に縮小された。
このような中、市区改正計画に挙げられた日比谷公園については、東京市はその実現に強い熱意を持っていた。日比谷公園の地は、明治21年(1888)に青山に移った練兵場の跡地で、市区改正条例により議定された後、明治25年(1892)、東京府は陸軍に引渡しを上申、翌26年以降、用地は順次東京府へ、さらに東京市へと引き継がれた。東京市はこの土地に、従来の神社仏閣の境内地を編入した公園とは異なる、近代的な市民の遊歩地としての公園の実現を期していた。公園の具体的プランは紆余曲折の末、本多静六の案に基づき造園された。
明治36年(1903)6月に開園した日比谷公園はその整備に至る経緯、設計、工事とすべての面でわが国の近代公園の象徴ともいうべき公園である。

近代上下水道の整備

明治時代初期の上水道は、江戸時代から引き継いだ玉川上水と神田上水の2系統による給水が続いた。また、木樋水道ではあるが、玉川上水を水源として新たに千川水道と麻布水道が設けられた。しかし、江戸時代から続く上水の水質は、管理の欠如などから汚染され、ほとんど飲用に不適当な状況であった。
このような状況を受け、政府は水道改良の必要性を認め、内務省土木寮雇のオランダ人工師C.J.ドールン(Cornelis Johannes van Doorn)に調査を命じた。ドールンは、明治7年(1874)に東京水道改良意見書を提出、さらに翌8年には「東京水道改良設計書」を提出した。さらに政府は明治9年(1876)、東京府に水道改正委員を置き、上水の改良方法や建設費用などを調査させ、明治13年(1880)には「東京府水道改正設計書」を立案した。
一方、明治10年(1877)から、東京府下でのコレラの流行が断続的に続き、特に明治15年(1882)には、東京府下で死者が約5,000人、東京市域に相当する15区での死者は4,500人を超える大惨事となった。この惨状を契機に、下水道の必要性を痛感した政府は、明治16年(1883)4月、内務卿山田顕義の名により上下水道の改良を促す「水道溝渠等改良ノ儀」を東京府に示達した。
これを受けて東京府は、下水道改良事業実施地区の検討を行うとともに事業計画を立案した。こうして明治17年(1884)11月、構造は暗きょ、排除方式は合流式、本管はレンガ積みの卵形きょ、分管は円形陶管とする計画が許可され、神田地区において直ちに工事に着手した。これが神田下水であり、東京の近代下水道のはじまりである。しかしこの事業は、3年目の国庫補助が不許可となり、レンガ造りの暗きょを約4km敷設したところで事業が中止された。
上・下水道の改良が具体化されるのは、明治21年(1888)、内務省に市区改正委員会が設置されてからであった。同委員会は、内務省衛生工学師W.K.バルトン(William Kinninmond Burton)を主任とする7人の専門委員からなる上水下水設計調査委員会に上下水道計画調査を委託する。設計調査委員会は、市区改正委員会における水道改良委員会での検討結果などをも踏まえ、直ちに設計調査に着手する。その結果、委嘱2か月後の同年12月に「東京市上水設計第一報告書」を、翌22年7月に「東京市下水設計第一報告書」をまとめ、市区改正委員会に提出した。
上水道は、バルトンらが取りまとめた「東京水道改良設計書」が明治23年(1890)7月に内閣の認可を得た。この水道は、玉川上水路を利用して多摩川の水を淀橋浄水場へ導いて沈殿およびろ過を行い、有圧鉄管により市内に給水するもので、明治31年(1898)12月に神田・日本橋方面に通水したのを皮切りに順次区域を拡大し、明治44年(1911)に全面的な完成をみた。
下水道の整備はコレラの防疫のために計画されたが、膨大な費用を要する両事業を同時に実施することは不可能であったため、上下水道改良論はしだいに、上水・下水のいずれを先行させるべきかとの論議に発展していった。明治21年(1888)10月、市区改正委員会は、上下水道の計画経費が市区改良事業の年間予算にくらべて巨額であったため、「上水改良を先行させ下水改良は漸次行っていく」との方針を決定した。神田下水に始まり、市区改正委員会での審議を経て本格的下水道計画の立案まで進んだ東京の下水道は、ここで一旦中断されることとなった。
一方、近代産業の急速な進展と東京市への人口集中が進む中、都市環境の悪化も著しく、明治33年(1900)には下水道法が制定され、市区改正委員会は、明治37年(1904)2月、中島鋭治を臨時委員に任命して下水道設計の調査を委嘱した。中島は明治40年(1907)3月に、調査結果をまとめた「東京市下水設計調査報告書」を提出した。この設計は、旧市街地(ほぼ現在の山手線内側および江東の西側半分に相当する地域)に下水道管きょと処理施設を築造し、排除方式は合流式(バルトンの設計では分流式)、計画人口300万人、計画汚水量一人1日平均6立方尺(約167L)、計画最大降雨量1時間あたり1.25インチ(31.7mm)とし、各戸下水道の構造や管の材料・管径・勾配等の排水設備の構造についても初めて定められた。そして、翌41年3月、「東京市下水道設計」が閣議決定され、同年4月、東京市長尾崎行雄の名で「東京市下水道設計」の告示がなされた。明治44年(1911)6月、第一期工事が認可されたが、原設計の基礎となった調査から10年前後が経過し、計画とそぐわない部分が生じてきたため、同年9月、下水改良工事顧問会を設置して再検討を行い、見直し案を策定した。見直し案では計画最大降雨量が1時間あたり50mmに引き上げられた。この案は大正2年(1913)11月に内務・大蔵両大臣の認可を得て、各種工事に着手した。
また上水道も、市区改正委員会が明治42年(1909)4月に中島らに東京水道拡張に関する調査を委嘱した。そして大正元年(1912)9月に、多摩川を水源として村山貯水池、境浄水場、和田堀給水所などを建設し、それまでの給水能力を倍増させる水道拡張事業が内閣の認可を受け、翌2年11月から着工した。

東京築港のはじまり

東京の港の歴史は、太田道灌が江戸城を築いた後、江戸湊を平川(現日本橋川)の河口付近に開いたことに始まる。江戸時代初期には既に、隅田川をはじめ日本橋川、楓川、三十間堀等の河岸や物揚場が整備された。河岸は町人の荷を取り扱い、物揚場は大名等の荷を扱っていた。関西方面から来る千石船等の大きな船は、品川沖から佃島沖に碇泊して荷をはしけに積み替え、各河岸や物揚場に荷揚げをした。また、奥州・銚子からの船荷は、高瀬船のような小さな船に積み替え、利根川、江戸川、小名木川を通る水上交通路で河岸に着くことも多かった。120か所から200か所もあったこれらの河岸が江戸湊の主な機能を担い、大都市江戸の物流を支えていた。
明治維新後、東京への物資の流入は増加した。明治新政府は、外国から多くの学者、技術者を招聘し、河川、港湾、鉄道等の重要事業に参画させた。しかし、東京港は水深が浅く、また国防上の配慮もあって規模は江戸湊のままであった。
明治13年(1880)、先にも記したように、時の東京府知事松田道之は、市区改正条例の契機ともなった「東京中央市区画定の問題」の中で、道路整備、築港を柱とする東京の未来像を示し、中でも築港については、東京を国際港にしようと、大胆な築港案を示した。しかし、松田の死去により築港案は具体化することはなかった。
松田の意思を継いだ第8代府知事芳川顕正は、明治18年(1885)2月、前年の「市区改正之儀ニ付上申」の提出に続き、「品海築港之儀ニ付上申」を内務卿山縣有朋に提出する。
政府はこれを受けて、東京市区改正委員会に審議を命じ、同委員会から提出された修正案である大築港計画の実施に向けて手続きを進めたが、横浜港を抱える神奈川県側の反対運動などによって決定されるには至らなかった。
この間、隅田川の堆積は進み、小型船の入港が困難な状況となったため、東京府は、航路確保の対策として浚渫を検討し、明治20年(1887)、東京湾澪浚(みおさらい)工事に着手した。明治22年(1889)の市制施行により東京市が工事を引き継ぎ、明治29年(1896)に、隅田川永代橋下流から台場外側の航路入口までの全長約6.5kmを幅54m、水深3.6mに浚渫し完成させた。これにより500トン級以下の小型船が入港できるようになった。
明治32年(1899)、初代東京市長松田秀雄は、東京築港計画を古市公威と中山秀三郎に委嘱し策定した。この計画は、翌33年、東京市議会の決議を得たうえで、内務大臣に提出され、第15帝国議会において衆議院で可決された。しかし、東京築港は東京市の内外から反対が起こり、特に横浜市民は横浜港の生命を奪うものであるとして、激しい反対運動を展開した。このような状況の中、築港に向け奔走していた東京市会議長星亨が暗殺され、計画は立ち消えとなった。
その後も、河川からの流出土砂の堆積がはなはだしく、100トン級の船舶がようやく入港できる程度となり荷役が困難となったため、東京市は、東京商工会議所の要望もあって、全面築港策と分離して、明治39年(1906)12月、隅田川口改良第一期工事に着手し、永代橋下流から台場外側航路入口までを再び水深3.6mに浚渫した。河口港の宿命から流出土砂の堆積、その対策としての浚渫工事はその後も繰り返し行われることになる。

I期1919〜1945年(大正8〜昭和20年)「都市計画」制度の確立と震災復興そして戦時下の時代

昭和7年(1932)10月、東京市は周辺5郡82町村を編入し、35区体制が敷かれた。
その後、昭和18年(1943)7月には東京府、東京市が廃止され、これまでの府、市の二元体制から新たに東京都が誕生する。誕生した東京都は、ほぼ現在の東京都の範囲と同じであった。また、35区体制も、東京都の下部組織としてそのまま引き継がれた。誕生時の東京都の人口は750万人程度であった。

大正8年 (1919)
都市計画法、市街地建築物法の公布
大正12年(1923)
関東大震災発生
大正12年(1923)
帝都復興のための特別都市計画法の公布
昭和4年 (1929)
世界大恐慌
昭和6年 (1931)
満州事変勃発
昭和7年 (1932)
周辺5郡82町村が東京市に編入
昭和16年(1941)
太平洋戦争開戦
昭和18年(1943)
東京府、東京市が廃止され東京都が誕生
昭和20年(1945)
東京大空襲

社会背景と都市の様相

明治も後半に入ると、鉄道の敷設、道路の拡幅、上下水道の整備など、明治新政府が推し進めてきた近代化は一定の成果をみせてきた。一方、それに合わせて都市化の進展に伴う市街地の拡大の現象も現れ始める。
明治末(1910)で270万人程度であった東京の人口は、大正9年(1920)には370万人程度に増加したが、これは市街地の北部から西側の郊外部、現在の新宿、渋谷、中野といった地域に住宅地が急速に拡張していった結果であった。
一方、市区改正事業は縮小され、結果的に都心部の改造事業に終わってしまったため、拡大を続ける市街地に対してこれを規制する法制度が欠如していた。
これらは、都市計画法の成立(大正8年)として実現することになるが、都市計画法成立直後に発生した関東大震災により、東京の都市の様相は大きく変わり、震災による被災者も含め、大正14年(1925)には東京市の人口が一時的に減少するとともに、市内と郡部の人口構成比が逆転する状況となる。
昭和に入ると、昭和6年(1931)の満州事変の勃発を皮切りに徐々に戦時体制が強まり、防空法の公布や都市計画法の目的に「防空」が加えられるなど、都市づくりそのものが防空都市計画となる。
なおこの期中、昭和7年10月、荏原郡、豊多摩郡、北豊島郡、南足立郡、南葛飾郡の周辺5郡82町村が東京市に編入され、東京市の行政区域はほぼ現在の23区の範囲となった(当時は35区体制)。さらに、昭和17年(1942)12月、一連の地方制度改正の一つとして東京都政案が閣議決定され、翌18年の帝国議会で修正可決された。これにより昭和18年7月、それまでの東京府、東京市の二元体制が終結し東京都が誕生する。35区体制は東京都の下部組織としてそのまま引き継がれた。誕生時の東京都の人口は750万人程度であった。

都市づくりの構想・計画とそれを支える制度

市区改正から都市計画へ

都市計画制度が誕生した背景には、近代化とそれに伴う都市化の進展により拡大を続ける市街地に対して、これを望ましい水準に誘導することの必要性が認識され始めたことによる。
東京においても、大正年間に入ると、第一次世界大戦の影響による産業の躍進により人口集中が激化し、無統制な市街地が随所にみられるようになった。もともと城下町として建設された東京の市街地は、市区改正事業によって整備が進んだとはいえ、近代産業や交通の発達に追いつけず、都市活動の様々な面で支障が生じてきていた。都市計画法制定前後には、周辺82町村の人口は20年前の3倍にも達しており、東京市区改正条例に基づく制度では範囲的にも内容的にも時代の要請に応えることができなかったといえる。
このような時代の要請に応えるかたちで都市計画法が制定されるが、時を同じくして、東京市長後藤新平の東京市政要綱が発表された。
寺内内閣で内務大臣を務め、都市計画法の制定にも大きく関わった後藤新平は、東京市会において東京市長に推挙され、大正9年(1920)12月、東京市長に就任する。当時の首都東京の都市構造の課題を十分に認識していた後藤は、市長就任後すぐの大正10年4月には「東京都市計画構想」を市参事会に提出し、その後、「東京市制要綱」を発表する。東京市制要綱は、道路、ごみ処理、社会事業施設、教育、上下水、住宅、電気・ガス、港湾、河川、公園、市場、公会堂など、都市における人間生活に関わる事項全般を丁寧に取り上げた東京の大改造計画であった。東京市制要綱は、8億円の費用(当時の国家予算15億円程度)を要する膨大なものであったことから、後に「大風呂敷」と揶揄されることになるが、この計画が、関東大震災後の震災復興計画の下敷きになったとされる。後藤は、関東大震災発生前の、大正12年(1923)4月に東京市長を辞する。

都市計画法・市街地建築物法

大正7年(1918)、内務省は都市計画行政を専管的に所掌する組織として都市計画課を設置した。また、都市の健全な発達と無秩序な膨張の防止という目的をもって都市計画調査会を発足させ、後藤新平や池田宏等内務省関係者や建築学者佐野利器らの専門家を中心に、都市計画法制の作業に着手した。この調査会の調査要綱をもとに、内務省は翌8年3月、都市計画法および市街地建築物法を取りまとめ帝国議会に提出した。両法は大正8年(1919)4月に公布され、都市計画法は大正9年1月から、市街地建築物法は同年12月から施行された。
新たに制定された都市計画法では、都市計画決定手続きや事業の執行体制等が、基本的には従来の東京市区改正条例から引き継がれるとともに、次の事項が制度化された。
 ①都市計画区域の制度を創設
 ②都市計画と都市計画事業を区別し、さらに都市計画制限の制度を新設
 ③住居、商業、工業(および未指定)に土地の用途を区分し、その上に建築される建築物の種類等を制限する地域制度を新設
 ④農地改良でとられていた耕地整理の手法を導入し土地区画整理の制度を採用
 ⑤超過収用、工作物収用の制度を新設するとともに、受益者負担金制度を新設
しかし、都市計画事業推進に必要な自主財源の確保(国庫補助規定)については見送られた。
また、都市計画法と同時に制定された市街地建築物法は、建築等を規制する法律であり個人所有の土地に対する規制をわが国にはじめて導入したもので、以来昭和25年(1950)まで30年間にわたって建築行政の基礎となってきた。同法の主な内容は次のとおりであった。
 ①用途地域として住居、商業、工業の3地域を設け、また防火地区、美観地区等の制限も設けた
 ②建築物は道路幅の境界線より突出することができないという建築線制度を設けた
 ③地域を定めて、建築面積の敷地面積に対する割合(建ぺい率)に一定の制限を置く制度を設けた
 ④建築物の高さの制限や構造等に関する規定を設けた
 ⑤保安と衛生の見地から有害危険な建築物の除去、改築等に必要な規定を設けた
同法は、その適用区域を主務大臣が指定する区域(当初は六大都市のみで、その後全国に拡大)だけに限り、許認可および届出制を採用していたところに特徴があった。
なお、市街地建築物法の執行の任にあたるものは、東京府においては他府県と異なり、知事ではなく内務大臣の委任を受けた警視総監で、その実務は警視庁保安部建築課があたった。その後、昭和18年(1943)7月の都制の発足に伴い、警察行政から、消防・衛生・営業関係とともに建築行政も分離され、知事がその任にあたることとなった。
都市計画法と市街地建築物法の両法は一体となって施行され、これによってわが国における近代的な都市計画行政が第一歩を踏み出したといえる。

震災復興計画

大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災は、地震による倒壊に加え火災による多大な被害をもたらした。水道、交通機関などは寸断、電話など情報伝達機関は麻痺し、震災は首都東京の都市機能に大きな打撃を与え、一部に遷都が論じられるほどであった。
しかし、翌2日、第二次山本権兵衛内閣が成立し、元東京市長後藤新平が内務大臣(後に帝都復興院総裁兼務)に就任し、震災からの復旧にとどまらず近代都市建設を目指した「帝都復興に関する根本方針」を定めた。根本方針では「全般ノ施設ヲ通シテ實質ヲ主トシ外観ヲ従トシ学理ト経験ヲ応用シ且欧米諸都市ノ現状ヲ参酌シテ帝都ノ復興ニ資シ更ニ都市ノ面目ヲ一新シテ威容アルモノタラシメ以テ国民ノ実際生活ニ対シ便宜ト慰安トヲ興フルヲ其ノ基準ト為スニ在リ」と謳われた。
この完遂のために、アメリカの都市学・市政学の権威であるC.A.ビアード博士(Charles Austin Beard)に意見を求め、復興費41億円にのぼる遠大な復興計画を策定した。都市「復旧」ではなく都市「改造」を目的としたこの案も、政府原案では15億円に、国会での最終修正額は4億6,844万余円と、原案から大幅に縮小されたが、近代的な都市計画手法をはじめて導入するなどの成果を残し、後の戦災復興計画にも大きな影響を与えた。
一方、都市計画法の制定を受け、内務省都市計画課は、東京の都市計画の立案作業に取りかかっており、大正10年(1921)4月には、東京都市計画道路網が決定され、翌11年4月には東京都市計画区域が決定された。
こうした最中に関東大震災が発生した。相模湾の海底を震源としたマグニチュード7.9の大地震は、東京など一府六県に甚大な被害をもたらした。罹災世帯は東京市の73.4%、特に大火による市の焼失面積は約3,630ha、市域面積の4割以上にのぼった。この震災により、煉瓦街や和洋折衷の建築、防火建築規制による土蔵造りも壊滅的な被害を受け、江戸時代から基本的に変わっていなかった町割りは大きく崩壊することとなった。
この未曾有の大災害からの復興は、被害の規模、被害地域の重要性からみて、4年前の都市計画法によりスタートしたばかりのわが国の都市計画にとっては困難の多い仕事であった。しかし同時に、都市計画の意義、重要性を社会的にアピールし、東京市区改正事業が果たし得なかった東京の都市改造を全面的に進めるには千載一遇の機会でもあった。
地震による火災が続く9月2日に成立した山本権兵衛内閣で内務大臣に就任した後藤新平を中心に、政府は直ちに復興計画の立案に着手し、同月中に帝都復興審議会および帝都復興院(総裁:後藤新平)を設立して復興計画事業の検討を進めた。最終的には4億6,844万円にまで削減されることとなったが、大正12年(1923)末には、帝都復興の予算と特別都市計画法がともに成立し、復興事業が同年から昭和5年(1930)にかけて進められた。
内容は、主として焼失区域において、街路、橋梁、河川、運河、公園および土地区画整理等の事業を行うものであった。
土地区画整理事業については、特別都市計画法を制定し進められた。具体的には、従来原則として組合施行であった土地区画整理事業に行政庁または公共団体施行を導入したこと、組合施行における組合総会に代わるべき機関として土地区画整理委員会を設置したこと、また建物のある宅地の強制編入を認めたことなどであった。こうして、市街地の土地区画整理事業は一部の強硬な反対を受けつつも大規模に実施された。施行面積は東京の焼失面積の約9割、3,000ha余に及んだ。
街路事業についても、「幹線第1号の昭和通り(幅員44m)」、「幹線第2号の大正通り(現靖国通り、幅員36m)」の東西・南北の二大幹線道路をはじめ、これらに並行するように、蔵前通り、永代通り、晴海通りや清澄通り、江戸通り(現八重洲通り)、新大橋通り、外堀通りなど、今日の東京の主要な広幅員の幹線街路の多くはこの時に完成した。また、隅田川では、広幅員道路の完成に併せて幾多の橋梁が架け替えられた。
これ以外にも、復興局がつくった隅田、浜町、錦糸の三大公園、小学校に隣接してつくられた東京市の52の復興公園など今日の東京にも繋がる社会資本整備がなされた。
事業費としては、予算の多い順に、道路建設(3億911万円、総延長114kmに及ぶ幅員22m以上の幹線道路52路線など)、土地区画整理(1億270万円、約3,000ha)、橋梁(6,351万円、隅田川に架かる相生橋、清洲橋などの復興六大橋を含む425橋)、学校(4,430万円、耐火建築による公立学校122校)、上下水道(5,021万円、うち下水道事業が約8割)、河川および運河の復興(2,693万円、14河川)、公園(2,565万円、55公園、合計約42ha)などとなっている。
なお、関東大震災では陸上交通は壊滅的な被害を受け、海上交通が頼みの綱であった。当時、隅田川口の浚渫土砂によって造成間もない芝浦地区の埋立地に670m程度の物揚場が築造されており、背後は空き地であったため、この場所が震災直後の東京への唯一の輸送路として活用された。しかし当時の隅田川口改良工事ではそもそも大型船が直接接岸できるようには計画されていなかったため、前面航路は3.6mの水深と浅く、満潮を利用しての荷役であり大きな不便が生じた。この経験により、大型船の直接接岸できるふ頭設備が東京にないことを官民ともに痛感し、これがきっかけとなり、近代ふ頭を早急につくる機運が高まり、昭和5年(1930)、東京港修築計画が策定されるに至る。

拡大する市街地の抑制(東京緑地計画)

震災復興都市計画事業は紆余曲折を経ながら続き、昭和5年(1930)にほぼ完成した。この間、東京の工業力の回復も目覚しく、工場立地も遠隔化していく。昭和初期には東京を中心とした20〜50km圏にある現在の府中、武蔵野、昭島、東大和への工場集積が顕著となり、住宅地と並んで工業地も市街地の拡大を促進する要素となった。
このような拡大する市街地の抑制の期待から導入された都市計画法制を有効に使うためには、それらをどのような姿に誘導するかというマスタープランが不可欠であった。
そうした状況の中で、大正13年(1924)にアムステルダムで開かれた国際都市計画会議で提案された衛星都市を前提とした大都市圏計画と、都市計画の上位計画としての地方計画の必要性は、わが国の都市計画家たちにも大きな影響を与え、地方計画が大いに論じられるようになった。ちなみに、後に東京の戦災復興計画を立案し、日本の都市計画の発展に大きく貢献した石川栄耀は、都市計画愛知地方委員会技師時代、このアムステルダム国際都市計画会議に出席している。
この時期に立案された東京圏の地方計画としては、昭和11年(1936)の関東国土計画、14年(1939)の東京緑地計画などがある。これらの中で注目に値するのは、アムステルダム会議で提案されたグリーンベルトが、大都市の無秩序な拡大を防止するための「緑地」として都市計画行政に取り入れられたことであった。
昭和14年(1939)に内務大臣に報告された東京緑地計画では、環状緑地帯が東京市外周部に設定され、さらにそこから緑地帯が石神井川、善福寺川などの河川沿いに市街地に入り込むように計画されていた。
昭和15年(1940)に国が策定した関東地方計画大東京地区計画(皇都都市計画)は、戦争に突入していく時代の流れを反映した軍事色の濃いものであり、東京を取り巻く環状道路や放射道路は周辺の軍事基地を繋ぐことが第一義とされた。そして、当初は健康的な都市環境の育成が目的であった緑地についても、「防空」の観点から緑地の確保が論じられるようになっていった。そして、昭和15年は紀元2600年(神武天皇即位の年を元年と定めた紀元)にあたるとして、通常では捻出できない予算を計上し、砧(約81ha)、神代(約71ha)、小金井(約91ha)、舎人(約101ha)、水元(約169ha)、篠崎(約154ha)の各緑地用地を買収し、昭和17年の追加決定を含めて計13の大規模緑地計画の事業化を図った。震災復興以後、大規模公園の新設はほとんど実現していないこと、今日都内に現存する大規模公園の多くがこの計画の遺産に拠っていることを考えると、結果的にこれらの事業は後世に貴重な財産を残した。

系統的な道路網の計画

昭和の時代を迎え、震災復興事業も完了の目処がつき始めた昭和2年(1927)8月、東京特別都市計画委員会は、従来の計画道路を組み込んで、東京都市計画区域全域(今日の23区の範囲)に対する系統的な都市計画道路網を告示する。その内容は、「郊外ノ部」として幹線放射・環状道路20路線延長246km、補助線道路107路線延長385km、「市内ノ部」として、幅員22〜25mの幹線放射道路16本、幹線環状道路3本(環状六号、環状七号、環状八号)を配置し、その間に幅員12〜22mの補助幹線道路107本を設定、また幹線放射道路を都心に接続するため「市内ノ部」として、幅員18〜36mの道路16本(現白山通り、春日通り、甲州街道、中原街道等)を決定するものであった。また、これらを補完する道路として、細街路網の計画が、昭和10年代後半まで逐次追加決定されていく。
今日の23区の区域を対象とする系統的な道路網の計画はこれが初めてであり、東京の幹線環状道路は、この時の決定が原型となっている。しかし、色濃くなる戦時下にあって、これらの道路計画の建設事業は遅々として進まなかった。

戦時下体制における防空と建物疎開

戦時下の都市づくりは、防空法が昭和12年(1937)4月に公布され、昭和15年(1940)に改正された都市計画法で都市計画の目的として新たに「防空」が加えられたことなどからも窺えるように戦時色の強いものであった。
その結果、防空・軍事上等の面から公園緑地などのオープンスペース(空間)が重要視されるようになり、公園事業、緑地事業のそれぞれについて国庫補助によって整備が図られることとなった。前述の緑地計画もその一例である。
昭和16年(1941)、太平洋戦争が始まると、防空法が改正され、防空空地には建築禁止的制限を加えることになる。
都においては、昭和18年(1943)3月、内務省告示により防空空地・防空空地帯がそれぞれ指定された。具体的には、防空空地帯として、内放射空地帯、内環状空地帯、外放射空地帯、外環状空地帯、合わせて23地区、総面積約9,400haが、また、防空空地として、28地区275か所、総面積約340haが指定された。
また、この頃になると、疎開により重要施設を東京から移転させたり、市街地の密度を下げる計画が重視され、次第に「強制疎開」として、鉄道施設周辺や幹線道路沿道に広幅員の空地帯を設けるようになった。渋谷の山手線沿いの細長い宮下公園はその数少ない名残である。
なお、戦後東京におけるこれらの疎開跡地は、戦時補償特別措置法の規定により旧地主に返還されたほか、区画整理用地、公用公共用地、民間用地として利用、処分された。

代表的な都市づくり

震災復興計画による土地区画整理

関東大震災により、江戸時代から基本的に変わっていなかった東京の町割りは崩壊し、煉瓦街や和洋折衷の建築、防火建築規制による土蔵造りも壊滅的な被害をこうむるなど、東京の都市構造は大きな影響を受けた。
震災復興計画では、前述のとおり特別都市計画法に基づき土地区画整理事業が大規模に進められ、東京の新しい市街地が生まれることとなった。震災復興による土地区画整理事業の施行面積は東京の焼失面積の約9割、3,000ha余に及んだ。

震災復興計画による公園整備

震災復興計画では、復興局の執行により、隅田、浜町、錦糸の3公園が開設された。これらいわゆる帝都復興事業における三大公園は、いずれも用地買収によって造成された。隅田公園は水辺の公園、浜町公園は商業地の公園、錦糸公園は工業地の公園として位置づけられ、それぞれ特徴的な公園として、現在の東京においても貴重な社会資本となっている。
一方、東京市執行の小公園も数多く開設された。これらの小公園の特徴は、震災により焼失した市立小学校117校の再建・不燃化と一体的に構想整備されたことにある。復興小学校117校のうち52か所に、学校に隣接して小公園が設けられている。これらの小学校の校地と復興小公園は、区画整理事業によって捻出された街区の要所に配置された。復興小公園について、帝都復興事業概要には「小学校に隣接せる土地を選定し一般小公園と異なり特殊の機能を有する児童遊園地を為すものにして、1か所の平均面積を9百坪とし内4割を樹林、花園に充当し、残余の約6割を広場と為し、小学校授業時間中は小学校専用の運動場と為し、放課後並びに授業休日は一般公衆用公園として開放するもの」と記されている。

震災復興計画による幹線街路整備

震災復興計画では、幹線第1号の昭和通り(幅員44m)、幹線第2号の大正通り(現靖国通り)(幅員36m)の東西・南北の二大幹線道路をはじめ、これらに並行するように、蔵前通り、永代通り、晴海通りや清澄通り、江戸通り(現八重洲通り)、新大橋通り、外堀通りなど、今日の東京東部の主要な広幅員の幹線街路はこの時に完成した。

復興橋梁の整備

隅田川では、広幅員道路の完成に合わせて幾多の橋梁が架け替えられたが、震災で木製その他の既存の橋の多くが焼け落ちた反省から、下流の相生橋から上流の言問橋までの9橋はすべて鋼鉄製の架橋となった。橋の設計は主として、太田圓三や田中豊を中心とする鉄道省出身の復興局技術者があたり、隣接する橋梁や群としての景観などに配慮して新たな都市美や景観の創生に努めた。

市内交通網の整備

明治5年(1872)の新橋〜横浜間の鉄道開設から始まった東京の市内交通網の整備は、震災直前の大正10年代に入り、私鉄創立がピークを迎えた。これは第一次世界大戦後の好況で地方から流入してきた人びとや、家賃が高い中心部から移住した人びとの交通需要が高まったことと関係している。このような都市構造の変化に伴う交通体系の変容を決定的にしたのが関東大震災であった。震災後、人びとは地盤が高く強固で安全なうえ、緑豊かで健康的な郊外へと都心・下町から移り住み始めた。そして、このような人びとの移動は、郊外に住み、都心・下町に通勤するという新しい郊外居住のライフ・スタイルを生み出した。
大正14年(1925)の第2回国勢調査では市内と郡部の人口構成比が逆転し、郊外電車の運転区間は軒並み延長、大正14年11月には山手線の循環運転も始まり、ほぼ現在の骨格が形成された。
地下鉄建設が始まったのもこの時期からである。既に大正8年(1919)には地下鉄建設は許可されており、大正10年までに4社が認可を受けたが、この内、東京地下鉄道のみが実現した。
昭和2年(1927)には、東京最初の地下鉄が上野〜浅草間に開通し、その後、昭和9年(1934)までに新橋まで延長され、昭和13年(1938)には新橋〜虎の門間が開通、14年までに、渋谷〜新橋まで延長した東京高速鉄道と直通運転を開始した。

郊外住宅地の開発

大正の末期から昭和のはじめにかけては、増加する人口、さらには震災後の東京中心部からの人の移住に対応する受け皿として、郊外部を中心に積極的な優良住宅開発が行われた時期でもあった。
その一つは電鉄会社による沿線分譲であり、もう一つは玉川村、井荻町など、地主たちが村ぐるみで行った土地区画整理である。今日、23区内にある高級住宅地はこの時期の計画的宅地開発である場合が多い。
この時期の郊外住宅開発の例としては、大正元年(1912)、東京信託が玉川田園都市(世田谷区桜新町)を開発分譲したのが嚆矢といえる。
大正9年(1920)に設立された田園都市株式会社(現在の東急電鉄)は、郊外電車路線の計画を結び付けて洗足(大正11年)、田園調布(大正12年)をはじめとする多くの住宅地開発を行った。
また箱根土地株式会社(後の国土計画・西武鉄道)は、大泉学園(大正13年)、小平学園(大正13年)、国立学園(大正14年)などの学園都市開発を進めた。
同様の郊外型住宅地に、板橋区の常盤台や世田谷区の成城学園などがあり、いずれも新興住民に環境に優れた高級感のある郊外住宅地として好評を博し、以後の私鉄沿線の住宅地開発の先駆的な事例となった。
一方、地主たちによる区画整理としては、大正14年(1925)に認可を受けた玉川全円耕地整理組合と井荻土地区画整理組合の成果が知られている。前者は昭和29年(1954)までに世田谷区の用賀、等々力、尾山台一帯、後者は昭和10年(1935)までに杉並区の善福寺、井草、西荻一帯の888haで事業を行った。
両事業はいずれも全町、全村を対象とした大規模な宅地開発で、町長、村長となった地主が信念を持って事業を遂行したものであり、良好な住宅地の貴重な先例となっている。

ターミナル整備

昭和初期は、市電、地下鉄、乗合自動車、省線、私鉄などが競合し、ターミナルは大変な混雑に見舞われるようになり、駅前広場と付属街路計画の必要性が認識されるようになった。上野駅と駅前広場を一体に計画した上野駅改良工事が竣工した昭和7年(1932)には、私鉄の現状を考慮して、新宿、渋谷、池袋、大塚の4駅で駅前広場と付属街路計画が都市計画決定され、昭和14年(1939)にはさらに駒込、目白、五反田、大井町、蒲田駅付近の街路計画も追加された。しかし、終戦の昭和20年(1945)までに着手されたのは新宿のみで、その他は戦災復興時の主要駅前の区画整理を待つことになる。
新宿駅西口付近の改良については、淀橋浄水場の移転問題に絡んで、大正時代から議論が交わされてきた。しかし結局、新宿駅西口付近を中心にして最も緊急に整備を要する区域約6万m2に駅前広場と道路を築造することになり、都市計画東京地方委員会が中心となって、昭和7年(1932)8月に計画案が作成された。計画案はその後、関係機関の協議により修正されたうえ、昭和9年4月に都市計画決定された。事業は、東京初の超過収用土地区画整理で、建築敷地の分譲で資金を回収するという画期的な方法が採用された。同年より始まった工事は戦時下にありながら順調に進み、昭和16年(1941)には、広場と街路の大部分が完成した。また土地区画整理地区の整備もほぼ完了したが、その後太平洋戦争に突入したため、淀橋浄水場移転を含む本格的な都市再開発は戦後に持ち越された。
なお、昭和12年(1937)には高度利用、美観保持のため17m以上の高度地区指定を受けるなど、特徴的な事業であった。

大型ふ頭の整備

当時の東京港は、そもそも大型船が直接接岸できるようには計画されていなかったため、前面航路は3.6mの水深と浅く、満潮時を利用しての荷役作業は困難をきわめた。
このため、東京市は、応急対策として、大正13年(1924)、芝浦水陸連絡設備工事に着手、翌14年に、2,000トン級の船舶6隻が同時に接岸できる桟橋、上屋8棟を備えた東京ではじめての大型船の接岸設備を持つ日の出ふ頭を完成させた。
また、震災後、入港船舶が急増し、船舶の大型化傾向も顕著となったため、震災により一時中断していた隅田川口改良第三期工事も大正13年(1924)から再開、その後、計画規模を拡大し、5,000トン級の船舶を対象とした港湾整備を実施した。これはやがて、昭和16年(1941)の国際貿易港としての東京港の開港に繋がることになる。

荒川放水路の完成

かつての荒川の本流は隅田川であった。隅田川は上流の荒川に比べ川幅も狭く、堤防も低かったため大雨や台風の洪水を防ぎきれず、しばしば大洪水に見舞われた。
明治43年(1910)8月、関東地方は非常な長雨が続き、荒川、隅田川および他の主要河川も軒並み氾濫した。これを契機に、時の明治政府は臨時治水調査会を設けて、第一期治水計画を策定し、東京下町の抜本的な治水対策の一環として、内務省の直轄事業として、翌44年に荒川放水路建設が着手された。
放水路建設事業は、総工費3,144万6,000円、延長22km、掘削土量は2,180万m3、移転戸数1,300戸にも及ぶ大規模な事業であり、放水路の計画は原田貞介、工事指揮は青山士が担当した。
途中、大正6年(1917)の高潮による被害や大正12年(1923)の関東大震災による被害を受けながらも、大正13年の岩淵水門の完成より通水が行われ、その後関連工事が進められて昭和5年(1930)に完成した。
荒川放水路の完成により、隅田川沿岸の洪水危険性は大きく低減したとともに、放水路沿川に新たな工業地域が形成されて、現在では都内の貴重なオープンスペースとして親しまれているなど、東京の都市づくりにも大きな影響を及ぼした。

Ⅱ期1945〜1955年(昭和20〜昭和30年)戦後の復興都市づくりの時代

戦後の地方制度改革を受け、新制度への移行措置として、昭和22年(1947)4月、新制度のもとで首長、議員の選挙が行われ、安井誠一郎が公選都長官に当選、同年5月の地方自治法の施行により、そのまま初代都知事となった。また同日行われた、第一回統一地方選挙により35区から22区に統合された新制度下の区長選選挙も行われた。
そして、昭和22年5月の地方自治法施行時において、都は、22区、2市、19町、65村を包括する普通公共団体となった。なお、5か月後の8月には板橋区から練馬区が分離し23区体制の現在の姿となった。
地方自治法のもとで、区は都の下部組織から特別地方公共団体(特別区)となり現在に至っている。

昭和20年(1945)
終戦
昭和20年(1945)
「戦災地復興計画基本方針」を閣議決定
昭和21年(1946)
「東京都戦災復興都市計画」の立案
昭和24年(1949)
シャウプ勧告を受け戦災復興計画の再検討に関する基本方針の決定
昭和25年(1950)
東京都戦災復興都市計画の見直し(縮小)
昭和25年(1950)
朝鮮戦争勃発
昭和25年(1950)
首都建設法の公布
昭和27年(1952)
サンフランシスコ平和条約発効
昭和30年(1955)
首都建設委員会が首都圏構想を発表

社会背景と都市の様相

昭和20年(1945)になると連日の空襲が街を焼きつくし、東京は関東大震災から20年たらずで再び壊滅状態に陥った。被災面積は195km2、都区部の28%に及び、焼失家屋71万棟、都区部の家屋の半分が失われた。先の震災に比べ、被災地域ははるかに大きく、焼失家屋数は3倍強に及び、震災復興の成果も大半が焦土と化した。
終戦直後の当面かつ最大の問題は、食糧対策と並んで、冬を迎える戦災者の越冬対策であった。衣食住すべてに耐久生活を強いられた状況に対応するため、政府は昭和20年(1945)9月4日、罹災都市応急簡易住宅建設要綱を閣議決定し、防空壕などに住む罹災者のために、全国に簡易住宅30万戸を早急に建設するとした。しかし、終戦直後の混乱が災いして、その実績は3割程度にとどまり、東京でも至るところが焼け跡バラックで埋め尽くされ、繁華街では露店が建ち並ぶ状況であった。
戦災により東京の人口も一時的に大きく減少した。終戦時の東京都区部の人口は278万人程度であり、前年の730万人から半減した。しかし、戦後の引揚者の増加などにより人口は急速に回復をみせ、昭和21年には323万人、昭和22年には382万人に膨れ上がった。これらの急増する人口に呼応して、東京の市街地は外延的な拡大をみせ始めた。また、急激な人口回復は復興計画の根幹を覆すものであり、復興計画にも大きな影響を及ぼすことになった。
一方、戦後の日本は、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領下に置かれることになり、焼け残った主要なビルや空港、港湾などの施設も接収された。
東京に甚大な被害をもたらした戦災であったが、戦後5年を過ぎる頃からは、東京は着実に活力を回復し始める。特に、昭和25年(1950)6月に始まった朝鮮戦争は特需景気をもたらし、東京は一挙によみがえるきっかけを得る。その結果、東京都心部への人口・産業の集中と市街地の拡大といった、巨大都市東京への兆しが現れ始めることになる。
一方、戦後の日本は、頻発する多くの風水害に見舞われた時代でもあった。昭和20年(1945)の枕崎台風、22年のカスリン台風、23年のアイオン台風、24年のキティ台風など毎年のように大型台風が来襲し、戦災で疲弊した国土は大きな被害に見舞われた。カスリン台風では利根川の堤防が決壊し、南下した濁流が東京下町を襲う大規模な浸水被害が発生した。また、キティ台風による異常な高潮では、江東・葛西地区の護岸が至るところで破壊される大惨事となり、これらを受け、高潮対策を柱とした低地河川の整備が行われることになる。

都市づくりの構想・計画とそれを支える制度

戦災地復興計画基本方針

昭和20年(1945)12月30日、政府は「戦災地復興計画基本方針」を閣議決定し、翌21年9月11日に特別都市計画法を公布した。戦災地復興計画基本方針では、復興計画の目標として「戦災地ノ復興計画ニ於テハ産業ノ立地、人口ノ配分等ニ関スル方策ニ依リ規定セラルル都市聚落ノ性格ト規模トヲ基礎トシ都市聚落ノ能率、保健及防災ヲ主眼トシテ決定セラルベク兼ネテ国民生活ノ向上ト地方的美観ノ発揚ヲ企図シ地方ノ気候、風土慣習等ニ即応セル特色アル都市聚落ヲ建設センコトヲ目標トス」を謳った。
また、その内容は、①復興計画区域、②復興計画の目標、③土地利用計画、④主要施設、⑤土地整理、⑥疎開跡地に対する措置、⑦建築、⑧事業の施行、⑨復興事業費等となっており、特に震災復興事業の経験から、土地区画整理を重視したものであった。
なお、このように高い目標を持って定められた復興計画であったが、戦災復興計画の本格的な着手に至るまもなく、政府は、日本経済再建の基本とされたいわゆる経済安定計画の九原則(昭和23年12月発表)、翌年のドッジラインといった緊縮財政の開始、それに伴うシャウプ勧告もあって、昭和24年(1949)6月「戦災復興計画の再検討に関する基本方針」を定め、各都道府県に対し、復興計画を現実の社会経済情勢に適応できるよう計画縮小を基本に再検討することを指示するに至った。

東京都戦災復興都市計画

都では、戦災地復興計画基本方針に基づいて、昭和21年(1946)3月、東京都戦災復興都市計画を立案した。この計画は、「将来、(東京を)工業都市にすべきだが、現在はあくまで、政治、経済、文化の中心として発展させ、時期がきたら政治、文化を地方に交代させる」との方針で立案された。立案の責任者となったのは石川栄耀(当時、東京都都市計画課長)である。石川は戦前から一貫して過大都市抑制、地方分散論者であっただけに、取りまとめられたプランは、幅員100mの大幹線道路7路線、幅員80m道路2路線などからなる放射環状道路網、しかも100m道路のうち40m以上は植樹帯として想定、河川沿いはすべて帯状緑地や水辺公園を予定、鉄道沿線や大幹線道路沿いに幅員50mから100mの帯状緑地を予定するなど、戦前の東京緑地計画に始まるグリーンベルト思想に通じる理想色の濃いプランであった。
昭和21年(1946)に発表されたこのプランは、戦災都市として指定された東京区部の都市計画ではあるが、前年に決定していた基本方針を受けて、現在の首都圏の範囲の計画を考え方の背景に持っていた。すなわち、40〜50km圏に横須賀、平塚、厚木、町田、八王子、立川、川越、大宮、春日部、千葉等の人口10万程度の衛星都市、さらに外かく都市として人口20万程度の水戸、宇都宮、前橋、高崎、甲府、沼津、小田原等を想定し、これらで400万の人口を収容、東京区部の人口を350万に抑えようという計画であった。
戦災復興事業の根幹となったのは、かつての震災復興事業の場合と同様に土地区画整理事業であったが、公共施設の復旧については、特に首都東京としての性格を考慮し、都市活動の能率向上と健康・保健、防災などに重点を置くこととして計画が立案された。都市計画東京地方委員会(昭和24年6月以降は東京都市計画地方審議会)は、焼失区域を含む市街地全体について、施設計画を決定し、各計画は戦災復興院(昭和23年7月以降は建設省)により告示された。
東京都戦災復興計画の具体の内容は以下のとおりである。

①東京復興都市計画道路(昭和21年3月26日 戦災復興院告示第3号)

・幹線環状道路9路線、幹線放射道路34路線、延長合計約500kmを決定。その後、昭和21年4月には、補助路線124路線、延長約533kmを、また同年8月には、主要駅付近の広場および道路計画を11駅付近において決定。

②東京復興都市計画土地区画整理事業(昭和21年4月25日 戦災復興院告示第13号)

・戦災区域とこれに関連する区域を含めた約2万haを整理区域に決定。

③東京都市計画用途地域(昭和21年8月20日 戦災復興院告示第97号)

・計画人口350万人、都市計画区域の半分を市街化計画区域、残り半分を非市街化計画区域。
・工業地域には日常生活の必需品を生産する施設を収容するにとどめる。商業地域を半減する。

④東京復興都市計画公園(昭和21年9月4日 戦災復興院告示第132号)

・特別都市計画法に基づく公園として大公園3か所、小公園19か所、面積合計約135haを指定。

⑤東京都市計画防火地域(昭和21年9月4日 戦災復興院告示第134号)

・都心部はもとより、渋谷、新宿、池袋などの副都心部、あるいは幹線街路沿いに大幅に追加指定。

⑥東京復興都市計画高速鉄道網(昭和21年12月7日 戦災復興院告示第252号)

・5路線、延長約101.6kmを決定。

⑦東京特別都市計画運河および河川埋立(昭和21年11月26日 戦災復興院告示第122号)

・陸上輸送のふくそうと混乱のため、水運による輸送が適当との判断から、工業地帯の育成発展にも役立つ9運河計画を決定。
・戦災跡地の灰燼処理を兼ねて、道路・公園 等の敷地を生み出すほか、宅地の造成も考慮して、河川埋立を実施。

⑧東京特別都市計画緑地(昭和23年7月26日 建設省告示第17号)

・市街地の無統制・無計画な発展を防止するために、戦時中の防空空地帯を継承するかたちで、特別都市計画法により18,010haを指定。

⑨東京特別都市計画下水道(昭和25年7月10日建設省告示第740号)

・戦前の、旧東京市の下水道、郊外下水道および旧隣接12町の下水道の3計画を統合し、新たに区部全体にわたる計画を策定。

しかし、東京への人口の復帰、集中は進み、昭和21年(1946)には区部の人口は323万人、翌22年には382万人となり、計画人口350万人とした復興計画の根幹を否定してしまうこととなった。加えて、GHQはこの復興計画を敗戦国にふさわしくないとし、きわめて冷淡であった。
このような状況下において、昭和24年(1949)6月「戦災復興計画の再検討に関する基本方針」が定められ、各都道府県に対し、都市計画を現実の社会経済情勢に適応できるよう再検討することの指示が出された。
各都道府県に対して指示された緊縮財政に伴う戦災復興計画の再検討は、東京の場合はより深刻であった。なぜなら、東京では当時、戦災復興計画はほとんど手付かずの状況であり、事業未着手の場合には特に大幅な計画縮小が求められたからである。
都ではこの再検討の基本方針に従い、都市計画の全般にわたって検討を加え、大幅な縮小を行わざるを得なかった。その結果、昭和25年(1950)の事業見直しで、区画整理対象区域は2万haから5千ha弱に削減した。
道路についても同様であり、再検討の中では大幅な幅員縮小が行われ、荒廃した道路の補修に重点を置くにとどまった。その結果、幅員80m以上の街路計画は姿を消し、延長では変化はなかったが、幅員縮小の結果、道路面積は当初に比べて約30%の減少となった。
公園計画も計画面積で58.6%と縮小され、しかも事業化までいったものは、港区麻布十番の網代公園(昭和24年開園)などごく僅かであった。
このように東京の復興計画は大幅に縮小されたが、それでも7年間の復興経費676億円の内、国庫支出金265億円(総額の39%)、都債123億円(同18%)を除いた287億円(同43%)は都の税収や使用料から支出され、都財政の負担は多額であった。
なお、東京都では、区部の他、八王子市も戦災都市の指定を受け、特別都市計画法に基づき、昭和23年(1948)にはいち早く戦災復興土地区画整理事業に取組み、甲州街道と国鉄(現JR東日本)、京王の両八王子駅が面的に整備された街路ネットワークで繋がるとともに、北口駅前広場の整備やそこから放射方向に伸びる2本のシンボル的な道路の整備を行った。

東京港と東京飛行場の接収と返還

終戦後、占領軍によって芝浦ふ頭をはじめ主要港湾施設の接収が始まり、東京港のふ頭全域および臨海部の大部分が占有された。東京飛行場(羽田空港)も昭和20年(1945)9月に接収されることとなる。接収に際してGHQは、滑走路拡張のために海老取川東側(羽田鈴木町、羽田穴守町、羽田江戸見町)に住む約1,300世帯、3,000人の住民に対し、48時間以内に立ち退きを命ずる緊急指令を発した(いわゆる羽田の48時間強制退去)。
終戦後の東京港は、航路や泊地には被爆船等が埋没し、戦時中港湾の維持工事が不可能であったため土砂の堆積も多く、港の使用はわずかに泊地で沖荷役をするだけとなり、港の機能はほとんど停止状態に近かった。都は、港湾機能の復興を早期に図る必要性から、建設省の国土計画要綱および運輸省の港湾復興計画に基づいて、「東京港修築五か年計画」を立て、昭和24年度から事業に着手した。計画では、接収により不足している接岸施設を補充するため、豊洲ふ頭の主要施設をはじめとして、晴海ふ頭の桟橋建設、竹芝桟橋の復旧等を推進するものであり、この計画の実施により一応の港湾施設が整い大型船の入港が可能となった。
また、昭和26年(1951)1月に港湾法が施行され、これにより開港に対する様々な制約が除かれ、東京港は国際貿易港となる。東京港の接収も、昭和27年(1952)4月のサンフランシスコ平和条約発効後、港湾施設、埋立地の返還が順次行われた。東京飛行場も地上施設の大部分が昭和27年に返還され、名称を「東京国際空港」に改め、運輸省所管の空港として再出発することとなる。

露店商対策

戦後の社会経済の混乱の中、小資本で営業できる露店が繁華街を中心に多数出現し、最盛期には13,474軒にものぼった。膨大な数の露店は歩行者の円滑な通行を妨害するだけでなく、社会悪の温床ともなっていた。これらについては、戦後の土地区画整理での対応を基本としていたが、土地区画整理事業の縮小もあり、なかなか思うにまかせなかった。
このような状況に対し、昭和24年(1949)8月、GHQから都に対し、防火・衛生・美観の観点から、速やかに露店を撤去すべきとの指示が出された。都は、当時許可を受けていた公道上の露店7,718軒を26年(1951)3月末までにすべて撤去することとし、昭和25年2月、臨時露店対策本部を設置し、店舗建設に適当な換地の選定、移転の斡旋などを行い整理にあたった。
事業の実施にあたっては、撤去後の業者の生活再建が最も大きな問題であったが、業者側の協力もあり、整理開始後およそ2年を経た昭和26年(1951)12月末、銀座通り、上野広小路、渋谷道玄坂を最後として、街頭の新聞・宝くじ販売および靴磨きを除き、常設露店は道路上から姿を消すこととなった。
撤去・移転した露天は上野のアメ屋横丁や秋葉原の電気街など個性的な商店街を生み出すもととなったものもある。また、渋谷では日本で最初の地下商店街のきっかけともなった。

首都建設法・首都建設計画

東京の復興、さらには平和国家にふさわしい首都の建設という大事業を達成するためには積極的な国の助力が必要であった。また、原則として市町村の行政区域を都市計画区域とする都市計画の方法だけでは、政治、経済、文化など首都としての中枢機能を十分に発揮させることが期待できなかった。そのため、これらの重要施設の基本計画を樹立すること、その計画の厳格な実施が必要であるという要望が高まった。
昭和24年(1949)6月に「戦災復興都市計画の再検討」が発表され、東京の戦災復興事業が大幅に縮小されることになると、都では、東京の首都としての特殊性から考えて、首都建設を国家的事業として遂行すべきであるとの視点に立ち、同年12月、東京都議会が「首都建設法制定に関する請願書」を議決し、衆参両院議長に提出した。さらに知事も、同月、同趣旨の請願書を建設大臣に提出して、首都建設法制定促進運動を展開する。翌25年3月、東京都選出国会議員の発案によって首都建設法が国会に提出され、一部修正のうえ同年4月に可決された。
しかし、この法律が成立するためには、憲法第95条に規定される住民投票が必要であったため、6月4日の参議院選挙と同時に住民投票に付されることとなった。ところが、この法律に対する都民の関心が低かったため、都は首都建設法普及対策本部を設けてこの法律の意義について普及に努めることとなった。投票の結果(投票率55%)は、賛成102万5,792票、反対67万6,550票であり、ここに首都建設法は成立し、昭和25年(1950)6月28日に公布され、即日施行された。
昭和26年(1951)3月、首都建設委員会が総理府の外局として発足した。委員会は内閣総理大臣の任命する委員9人で構成されていたが、その中には都知事および都議会議員1人が含まれており、都の意見が反映される仕組みになっていた。首都建設計画は都の区域内において施行される計画であり、その事業の大部分も都において執行されるものであったため、都は同年9月、関係局長からなる東京都首都建設連絡委員会を設置し、関係部局の連絡調整を図ることとした。
首都建設委員会は発足後、首都建設計画において取り上げなければならない課題として、首都の性格、規模ならびに人口等24項目の調査研究を行った。これらに基づき、昭和26年(1951)12月から29年(1954)8月にかけて、各事業別に14の首都建設計画を定めて公示するとともに、昭和27(1952)年3月、その実施計画である「首都建設緊急五か年計画」(昭和27年〜31年、総事業費1,165億円)を作成し、道路、公園、住宅、上下水道の整備に努めてきた。
しかし、首都建設委員会は権限が小さいうえ、国の財政的援助も十分でなかったことや、法律の対象区域が都に限られていたため、首都圏としての抜本的な対策が講じられないという事情もあり、首都東京の諸施設の整備は思うにまかせなかった。そして何よりも、東京への人口・産業の集中は激しく、昭和20年に278万人にまで落ち込んだ区部の人口は、22年には382万人、25年には517万人と急速に回復していた。そのため、首都建設委員会は、昭和30年(1955)5月、ロンドン大学教授L.P.アバークロンビー(Leslie Patrick Abercrombie)によって1944年に作成された大ロンドン計画に範をとった首都圏構想を打ち出した。この構想は、都と社会的、経済的、文化的に結び付きの強い広域(都心から半径50kmの区域を予定)を首都圏と称し、それぞれの地域が最も適した機能を分担し、相互に効率的に補完しあいながら一体となった巨大な地域複合体としての整備を実施しようとするものであった。この構想は、1年後の昭和31年(1956)4月に制定された首都圏整備法のもとで具体化することとなる。

公害対策制度

東京の公害被害は明治時代からあったが、それらは局地的な性格を持つものが多かった。ばい煙の問題が市民に広く影響を及ぼし始めたのは、第一次世界大戦の頃からであった。この大戦を通じて、東京の工業は軽工業中心から重化学工業中心に転換していったため、工場のばい煙、排水、騒音問題や地盤沈下が発生した。昭和の時代に入ると、ラジオや自動車の警笛や建設工事の騒音も問題とされるようになった。
戦争により公害被害は一旦減少していたが、戦後、工業活動が急速に回復するに伴い、工場や住宅が混在する地域で、ばい煙、騒音、悪臭などの苦情が多発するようになった。また、工業地帯や都心ビル街でのスモッグ発生、工場排水による河川の汚濁、工業用水の汲み上げによる江東地域の地盤沈下といった広域にわたる問題が進行し始めた。
こうした状況に対処するため、都は、昭和21(1946)年の工場取締規則を経て、昭和24年(1949)8月、日本初の公害規制法規として東京都工場公害防止条例を公布した。
この条例では、工場からの騒音、振動、粉塵、有臭・有害ガス、廃液などを規制対象にして、工場の新設や設備変更の際に、知事の認可制度を導入した。また、この条例は、学校、病院、水道源等に近接して工場を設置することを制限したものであった。
一方、昭和20年代後半から、繁華街の音楽や街頭放送、自動車の警音器の騒音などが人びとを悩ますようになってきた。さらに、大正期に無煙炭の使用が強制されたことにより一時的に改善されていたビル暖房による黒煙も、戦後、有煙炭が多用されたため再び都心の大気を汚染するようになった。都はこれらに対応し、騒音防止に関する条例(昭和29年)、ばい煙防止条例(昭和30年)を公布した。
国レベルの対応についても、昭和33年(1958)には、「公共水域の水質の保全に関する法律」「工場排水等の水質の保全に関する法律」が制定された。しかし、具体的な基準等の規定が不十分であったことや、当時の都には公害対策を一括して担当する部局がなかったことなどもあって、この時期、公害対策の制度は一応つくられたものの、まだ不十分であり、経済成長に拍車がかかり、東京への人口・産業の集中がさらに進行すると、規制の効果は一挙に減殺されてしまった。

代表的な都市づくり

東京の戦災復興計画は前述のように当初計画より大幅に縮小されたとはいえ、それでも、現在に続く東京のインフラ形成に一定の役割を果たした。

戦災復興土地区画整理事業

戦災復興計画の柱であった土地区画整理事業による市街地の整備は、当初の対象区域2万haから5,000ha弱に削減した。その後も、区域内の建築進捗状況や財源などが原因で事業が遅れたため、しばしば区域を縮小し、昭和42年(1967)には1,400ha強に縮小された。結局、昭和58年(1983)の事業終了時までに実施されたのは1,274haにすぎず、戦災復興土地区画整理の成果は、ほぼ山手線、京浜東北線、総武線の駅前地区(新宿、渋谷、池袋、大塚、五反田、錦糸町等)に限られることとなった。また、東京区部とともに戦災都市指定を受けた八王子市でも、八王子駅前等の土地区画整理事業(約157ha)が実施された。
なお土地区画整理事業については、昭和29年(1954)に土地区画整理法が公布され、それまで、手続き的には耕地整理法の準用であった土地区画整理事業に独自の位置づけが与えられるようになった。また、この際、土地区画整理の目的として、従来の「宅地の利用増進」に加え「公共施設の整備改善」が追加された。
東京の戦災復興土地区画整理において特徴的なのは、組合施行による土地区画整理である。土地所有者たちの組合施行で行われることになった土地区画整理は、新宿の歌舞伎町や恵比寿駅付近など8地区ある。これは都が事業者としてこれらの事業を一斉に実施するのは困難だったことから、意欲のあるところには地権者で施行させるという方針を採ったことによる。

東京復興都市計画道路

道路については、幅員100mの大幹線道路7路線、幅員80m道路2路線などからなっていた放射環状道路網の計画であったが、再検討の中では大幅な幅員縮小が行われ幅員80m以上の街路計画はなくなった。
この中で、環状三号線の播磨坂区間は、周辺の土地区画整理事業が比較的早くから進行していたこともあり、当初計画幅員50mであったものが幅員40mに縮小はされたものの、広い中央分離帯を有する道路として整備され、石川の描いた当初プランが多少なりとも実現した数少ない例である。
また、縮小されたとはいえ、緊縮財政、厳しい財政状況の中で復興都市計画道路の事業を推進していくために、道路整備費の財源等に関する臨時措置法が昭和28年(1953)に議員立法により成立し、揮発油税が道路特定財源となった。同法は昭和33年(1958)に道路整備緊急措置法に継承され、さらにその後、道路整備費の財源等の特例に関する法律(平成15年)、道路整備事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律(平成20年)に改題され現在に至っている。

東京復興都市計画公園・東京特別都市計画緑地

東京戦災復興都市計画では、公園緑地については、東京緑地計画に倣って都市の性格や土地利用計画に応じて緑地を系統的に配置し、その総面積を市街地の10%以上確保することを目処とした。また、農地、山林、河川等空地の保存を図るため緑地帯を指定することとした。
昭和21年(1946)4月には、防災と都市景観を目的とする「東京復興都市計画緑地」が戦災復興院より告示された。この内容は、総面積約3,200ha 、1〜4kmの距離を置いて、30〜100ha規模の緑地を配し、それを30〜200m幅のグリーベルトで繋ぐ壮大な計画であった。
昭和21年9月、復興を促進するために特別都市計画法が公布され、復興計画、緑地地域等に関して都市計画法等の特例が定められた。また、同年9月には、内務省戦災復興院が緑地地域計画標準を通知した。この内容は、空地帯の指定地域を緑地指定(東京のみ実施、334ha)するとともに、市街地面積の10%を緑地とし、近隣公園・児童公園は市街地面積の5%、一人あたり1坪(約3.3㎡以上とする内容であった。
昭和22年(1947)9月から24年5月にかけて、大公園4か所、小公園33か所、面積合計約169.21haの計画規模の東京復興都市公園が計画決定された。また、昭和23年(1948)7月には、建設省が東京特別都市計画緑地地域について、18,000haを指定した。これは、従前の防空空地帯を継承したものであった。しかし、同年11月には、大緑地の解放運動が起き、都の経済局内に設けられた土地区画整理地区等指定委員会が緑地解放を決定するに至った。これは戦時中に公園緑地を食糧確保のための農地として利用されていたことなどの理由による。これにより、防空大緑地を中心に約460ha、緑地の63%以上を失う結果となった。なお、公園緑地の都市計画決定、規制は維持された。
またこれに加えて、昭和24年(1949)のドッジラインおよびシャウプ勧告を受けて、国が「戦災復興計画の再検討に関する基本方針」を定めた。これによって戦災地復興都市計画が見直されて、東京の戦災復興事業も大幅に縮小することとなった。都市公園の計画も大幅に縮小され、計画面積は58.6%となった。幹線街路と鉄道沿線の緑地帯は全廃、中小河川を計画に取れ入れたものの、ベルト状の緑地は大公園1,435.45ha、小公園197.4haに縮小変更された。また、これにより、復興土地区画整理事業による多数の小公園が計画されることとなった。

東京特別都市計画運河および河川埋立て

東京都戦災復興都市計画では、陸上輸送の輻輳と混乱のため、水運による輸送が適当との判断から、工業地帯の育成発展にも役立つ9運河の計画が決定されるとともに、戦災跡地の灰燼処理を兼ねて、道路・公園等の敷地を生み出すほか、宅地の造成も考慮して、河川埋立の計画が定められた。
この内、運河計画については、その後、陸上輸送機関の復旧・発達につれて必要性が薄らいできたこと、地盤沈下の進行による橋梁沈下や護岸の嵩上げで水運に障害が出たこと等により、結局はどれも実現されなかった。
一方、河川の埋立てについては、都市計画東京地方委員会において、河川に灰燼を埋立てることとした「不用河川埋立計画」が決定され、その後の追加決定も含め、外堀(東京駅・鍛冶橋)、真田堀、東堀留川、龍閑川、浜町川、六間堀川、三十間堀川の8河川の埋立てが実施され、昭和26年(1951)までに事業が概成した。灰燼の処理量は約90万㎥に及んだ。
こうして埋立てられた河川は、埋立て後売却され、道路整備の敷地などに充当された。

小河内ダムの建設

小河内ダムは、昭和7年(1932)の第二水道拡張事業計画によりその建設が位置づけられたダムである。第二水道拡張事業では、当初、利根川を水源とする予定であったが、まず相模川を、その後利根川および江戸川を水源とする方向で計画が立てられた。しかし、水利権の調整や行政区域を異にする河川利用の問題を解決することが難しく、事業の緊急性等を検討した結果、流量は少ないが域内にある多摩川に大規模ダムを建設することにより対処することとなった。計画の概要は、小河内ダムを建設し、多摩川上流の流量調節により得られた水を下流の羽村で取水し、村山・山口貯水池に導き、新設する東村山浄水場から市内に送水する計画であった。小河内ダムは戦前の昭和13年(1938)に工事着手したものの、戦争による工事中止を挟み、昭和23年(1948)に工事再開され、昭和32年(1957)11月に完成した。

Ⅲ期1956〜1965年(昭和31〜昭和40年)高度経済成長と大東京を見据えた都市づくりの時代

◆第一次首都圏基本計画(1958年策定:目標年次1975年)
既成市街地の周辺に幅10km程度のグリーンベルトを設定し、既成市街地の膨張を抑制すること、周辺の地域に多数の市街地開発区域(衛星都市)を指定、工業都市として開発し、人口および産業の増大をここで吸収して定着を図ることとされた。 また、諸機能の配置について、東京都区部において工場、大学等の新増設を制限し、分散困難な産業および人口に限り増加を考慮するものとした。

昭和31年(1956)
日本が国際連合に加盟
昭和31年(1956)
首都圏整備法の公布
昭和34年(1959)
第18回オリンピックの開催地が東京に決定
昭和35年(1960)
池田内閣が「所得倍増計画」を発表
昭和36年(1961)
建築基準法の改正
昭和38年(1963)
初の総合計画「東京都長期計画」の策定
昭和39年(1964)
東海道新幹線・羽田モノレール・首都高速道路の開業
昭和39年(1964)
東京オリンピック開催

社会背景と都市の様相

終戦から10年、戦後の混乱も収まりを見せ始め、平時の生活のありように人びとの意識が戻り始めた。経済的には、昭和25年(1950)に勃発した朝鮮戦争による特需景気により重化学工業が目覚しい回復をみせ、昭和35年(1960)には時の池田勇人内閣が「所得倍増計画」を発表するなど、高度経済成長を迎えた時代であった。
一方、高度経済成長を映すかのように東京への人口・産業の集中は拍車をかけるかたちで一段と進み、昭和30年代の東京圏(東京都、埼玉県、千葉県、神奈川県)の人口は、昭和30年(1955)の1,542万人から昭和40年(1965)の2,102万人へと約560万人、率にして36%も増加した。また、経済復興に伴い東京の市街地も拡大し、スプロールも進んだ。その結果、通勤ラッシュが社会問題化するとともに、自動車が増加し、都心部における路上駐車、駐車場不足への対応が求められるようになってきた。また、重化学工業を中心とした産業復興は、地下水の汲み上げによる地盤沈下の問題を先鋭化させた。
しかし、経済の復興とは裏腹に、東京の都市基盤は、戦災復興都市計画の縮小もあり、まだ必ずしも巨大都市にふさわしいものではなかった。
こうした状況のもと、東京の都市づくりは、戦後復興の時代から、近代都市としての整備が求められる段階となり、都市計画道路、高速鉄道、上下水道など各種の都市基盤の再検討が行われることになる。その弾みとなったのが昭和39年(1964)10月に開催された東京オリンピックであり、ある意味、オリンピックに間に合わせるために、集中的、緊急対応的な都市整備が実践されたということもできる。

都市づくりの構想・計画とそれを支える制度

経済計画と協調した国土計画

昭和25年(1950)、国土総合開発法が公布され、昭和29年(1954)には経済審議庁の「総合開発の構想」が策定される。その後、昭和31年(1956)には「経済自立5か年計画」が閣議決定、これに基づき「新長期経済計画」が翌32年に決定され、国土計画は経済計画との協調のもとに構想されるようになる。
昭和29年(1954)の「総合開発の構想」では、目標年次の昭和40年(1965)における労働力人口の完全就業を目標に掲げ、これを吸収できるGNPの規模を推計し、これを可能にする経済指標と物的施設(工業等生産施設、港湾、鉄道、道路、通信等)整備の計画を立てるほか、国土保全、住宅、都市計画などの事業を計画している。だが、この段階ではまだこれらの事業を国土に地域的に配置し、空間的計画として示すには至っていなかった。
昭和32年(1957)の「新長期経済計画」、35年(1960)の「国民所得倍増計画」になると、経済成長の目標を上方修正するとともに、既成工業地域を含む太平洋ベルト地帯に重化学工業コンビナートを立地させ、これを結ぶ交通計画が示された。このように、経済計画から国土計画を導き、さらに地域開発、都市開発とブレークダウンする方式がこの時期に確立する。

国を挙げてのオリンピック準備

昭和34年(1959)に1964年夏の東京オリンピック開催が決定すると、国を挙げてオリンピック一色に染まり、東京については先進国の名に恥じない都市づくりを果たすことが命題のように唱えられた。
オリンピック準備は、開催のための大会会場施設の建設・整備、選手村の整備にとどまらず、関連道路の整備、地下鉄の建設、東京港の整備、公園の整備、給水対策、下水道の整備など都市づくりの広範な分野に及んだ。
中でも道路整備に関しては緊急整備が課題であり、都では、膨大な事業を短期間に完成させるために、従来の道路事業の組織体制を変更し、昭和36年(1961)4月、建設局の中に新たに道路建設本部を設置するとともに、昭和35〜36年にかけて、オリンピック関連道路を専管する4か所の特定街路建設事務所を新設して対応を図った。
下水道整備についても、「山手線内のバキュームカー一掃」を号令に急速に整備が進められることとなり、事業費(拡張事業費決算額)についても、昭和34年(1959)の42億円から、37年には107億円に増加し、38年には146億円、39年には215億円と急増し、この結果、昭和39年(1964)には、山手線内側ではほぼ下水道の普及が完了した。
また、当時、水質の悪化が顕著であった隅田川についても、浄化のための公共下水道事業と特別都市下水路事業(工場排水により河川や水路が著しく汚濁している地域に、工場排水を収容し処理する特別の下水路を整備する事業)を実施することとし、まずは新河岸川の浄化と城北工業地帯の下水道整備事業が重点的に実施されたほか、汚泥浚渫、河川浄化用水の導入など、水質改善の対策が緊急的に進められた。

首都圏整備法・首都圏基本計画

戦後急速に回復した都の人口はその後も急増を続け、昭和28年(1953)には747万人と、戦前の最高時を上回り、年間の人口増も30万人と、率にして3%を超える異常な増加率を記録した。
一方、南関東一都三県の人口も昭和25年(1950)の1,273万人から30年には1,544万人と急増した。また、東京から隣接県への転出も多く、これらの人たちの多くは、いわゆる埼玉都民、神奈川都民というかたちで、都内の職場に通勤し、東京の生活圏は都の区域を越えて拡大の一途をたどり、行政計画の面からも広域的視点からの対応が強く求められるに至った。
こうした中、当時の安井誠一郎知事は、昭和30年(1955)の知事三選に臨むにあたって「グレーター東京」をスローガンに掲げ三選を果たした。三選を果たした安井知事を先頭とする東京都の熱心な働きかけもあって、翌31年4月、首都圏整備法が公布された。
首都圏整備法が制定されると、それまでの首都建設委員会に代わって首都圏整備委員会が総理府の外局として設置された。首都圏整備委員会は、首都圏整備法の基本構想を具現化するものとして第一次首都圏基本計画を昭和33年(1958)7月に発表した。
この計画は、東京駅から半径100kmの広域を首都圏とし、全域を既成市街地(母都市)、近郊地帯およびその周辺地域の3地域に区分し、それぞれの地域について整備方針を定めた。この計画は目標年を昭和50年(1975)とし、同年の首都圏内の人口規模を2,660万人と想定、既成市街地の適正収容人口1,160万人、既成市街地外の人口を1,500万人とした。
既成市街地(母都市)の区域として東京都区部、武蔵野、三鷹および横浜、川崎、川口の一部を指定し、既成市街地の周辺には幅約10kmの近郊地帯(グリーンベルト)を設定することで、既成市街地の無秩序な膨張を抑制しつつ再開発を進めるものとした。また、近郊地帯の外側に市街地開発区域を設け、多数の衛星都市を工業都市として開発し、この区域に人口定着を図り、職住近接の衛星都市にするという計画であった。
この首都圏基本計画と並行して首都圏整備計画が策定されたが、整備計画は「既成市街地における宅地整備計画」「首都官衙地区整備計画」といったかたちで、順次、首都圏整備審議会の議を経て決定された。そして、昭和33年(1958)7月の「既成市街地における宅地整備計画」の中で、初めて新宿、渋谷、池袋の3地区を副都心として再開発する方針が明示され、新宿地区、すなわち、淀橋浄水場およびその周辺地区については「適正な土地利用の実現を期するとともに、業務施設および住宅を導入して副都心としての機能を強化し、建築物の高層化、集団化の実現を図る」ものとされた。
さらに昭和35年(1960)7月には、先の宅地整備計画を改定するかたちで新宿副都心の整備方針として次の事項が決定された。
 ①都心機能の都心部への過集中を避けるため副都心の機能強化を図る。
 ②淀橋浄水場および隣接の工場を近郊地帯に移転する。
 ③その跡地および周辺地区を含む区域約96haを計画対象とする。
 ④本地区を総合的な業務街とするため各施設の位置、利便、景観等にも十分考慮を払う。
このように、母都市における都市機能を抑制し、複数の衛星都市をそれらの機能の受け皿として育成していくという、首都圏における多心型の構想、さらには、都心機能の都心部への過集中を排除し、その受け皿として副都心を育成強化するという多心型の都市構造の概念は、昭和33年(1958)の首都圏整備計画の中で初めて計画論として位置づけられた。

首都圏の既成市街地における工業等の制限に関する法律

昭和30年代前半、東京都区部においては年間20万人を超える人口増加があった。それにより、交通渋滞や生活環境の悪化などの問題が深刻化し、都市機能の混乱を招くおそれがあった。このため、人口増加の主要因であった工場や大学等の新設を制限し、大都市中心部への産業および人口の過度の集中を防止することを目的として、昭和34年(1959)3月、首都圏の既成市街地における工業等の制限に関する法律(工業等制限法) が公布され、翌月施行された。
さらに都は、昭和39年度から全国に先駆けて、工場等の移転跡地の取得制度を創設した。これは、移転した工場等の跡地を都が買収することにより、跡地が第三者に転売されて細分化されたり、再び工場等に利用されることを防ぐとともに、取得した跡地を都市施設の用地として利用することで総合的な再開発を行い、公園・道路等の都市施設のほか高層住宅等の用地としてその高度利用を図ることを目的としたものであった。
また、昭和41年(1966)には、国において都市開発資金制度が設けられ、地方公共団体が行う都市施設用地の先行取得や工場等跡地の買収事業に対し資金の貸付けが行われることとなった。これにより、都の工場等の移転跡地の取得事業は、都単独費と貸付金の併用により財源の安定性が確保されることになった。
また、顕在化し始めつつあった都心一極集中の問題に対応し、多心型の都市構造論が様々な場面で取り上げられるようになる。
その嚆矢となったのが、昭和38年(1963)に発表された大都市再開発問題懇談会の提言である。昭和37年に建設大臣の諮問機関として発足した大都市再開発問題懇談会は精力的な検討を重ね、
昭和38年に第一次の中間答申を提出した。これが「多心型都市構造論」を明確に打ち出した最初のものとされる。「副都心および流通センターの計画」もこの中で提案され、この提案はその後の東京の都市政策の基本となっていった。

地盤沈下への対応

都における地盤沈下は、太平洋戦争により産業が停滞した際には減少していた。しかし、昭和24年(1949)頃から低地部における地盤沈下が再び観測されるようになり、その後、沈下地域が千葉県や埼玉県との境まで拡大し、沈下量も増加してきた。地盤沈下の大きな原因と考えられたのが、復興した産業活動に伴う工業用水としての地下水汲み上げである。地下水には、河川のように「水利権」が明確にされていないため、工業用の地下水の利用量は飛躍的に増大していた。特に、隅田川沿岸の城北(内陸部)・江東(臨海部)両工業地帯には区部の揚水型工場の8割が集中しており、地下水の揚水量は昭和40年頃で、50万㎥/日と推定された。
東京東部の江東デルタ地帯は、隅田川と荒川に挟まれた位置にあり、比較的水深の浅い湾の最奥部にあることから、従前より高潮等の影響を受けやすい地域であったが、再び顕在化した地盤沈下により、大潮の際に浸水する地区が多数存在するようになった。
都は、キティ台風以来、被害の著しい江東三角地帯を洪水や異常高潮から防ぐため、護岸・嵩上げ工事等を実施し、昭和32年度からは、江東三角地帯を囲む外かく堤防修築事業に着手した。
一方、地盤沈下そのものを抑止するために、工業用水法、建築物用地下水の採取の規制に関する法律により地下水の揚水規制を行った。各法律により、許可基準不適合井戸の強制転換が行われるとともに昭和39年(1964)から工業用水道の給水が開始され、地下水位は上昇傾向がみられたが、地盤沈下は収まらなかった。
そのため、都では、東京都公害防止条例(昭和45年施行、現在は廃止)を改正し、量水器設置を義務づけ、使用実態を把握し、地下水使用合理化指導を行うという対応に迫られることになる。

最初の東京都長期計画

昭和34年(1959)4月、IOC委員東龍太郎が都知事に就任する。そして同年5月には、ミュンヘンで開催されたIOC総会で、第18回オリンピック大会の東京開催が正式に決定した。
東京都の人口はこの時点で既に900万人を超えていた。東都政はこの過密問題、およびオリンピック開催に向けた的確な対応を求められることとなった。
東都政は、緊急の課題に対応するために、鈴木俊一、太田園の両副知事を迎えてスタートした。そして知事は、就任後初の予算案を上程した昭和35年(1960)2月の都議会における施政方針説明で、人口・産業のさらなる集中による、住宅難・交通マヒ・水不足や公害の激化など「過大都市の悩み」を真正面から取り上げ、直面する問題点を指摘したうえで、交通難打開対策・環境衛生対策・上水道対策・住宅対策等9項目の重点施策を挙げた。さらに、これらの施策を推進し、都民の利便を一層促進するため、まず都庁における執行体制を整備すべく、機構改革と出先機関や区市町村への事務事業の移管を実施する旨を発表した。
東知事の表明した機構改革は、「都行政を計画的・効率的に推進し、その総合一貫性を保つための組織の設置」「重点施策を強力に推進するための組織の確立」であった。具体的には、都行政を計画的・効率的に推進し、その一貫性を保つための組織として、昭和35年(1960)4月に「企画室」(初代室長:原口一次)を、次いで7月には「首都整備局」(初代局長:山田正男)を新設した。この間、6月には太田和男を新たに副知事に加え、副知事を3人制とした。
政策面については、従来、過密の弊害に対応するための長期的視点に立った総合計画がなく、長期計画の策定が強く要請されていたことから、新設の企画室が中心となって作業を進め、昭和37年(1962)7月に「試案」として発表、これをもとに、国の計画決定等客観的情勢の変化に伴う所要の修正を加え、翌38年(1963)2月、都政として初めて、すべての行政分野をカバーする「長期計画」を策定した。
当該長期計画は、昭和36年度から45年度までの10か年を計画期間とし、計画期間中の事業費総額は3兆584億円、その内、首都圏整備関係事業費が2兆2,073億円であった。
長期計画の内容は、第1章:総論、第2章:基本計画、第3章:事業計画、第4章:財政計画から構成されている。
第1章:総論では、都の現状からみた計画の課題などが記述されており、都の現状について、先の施政方針を具体化したかたちで、人口および産業の過度の集中とそこからもたらされる過大都市の弊害として、①市街地の無計画な膨張、②交通条件の悪化、③上下水道等都市施設の需給のアンバランス、④居住環境の悪化、⑤住宅不足の恒久化、⑥オープンスペースの不足等を指摘している。特徴的な事項は、上記のような都市施設面的な観点からだけでなく、都の現状について、社会的経済的二重構造、そしてそこから生まれる、スラム問題、青少年の非行化等社会病理的現象についても重要な問題となりつつあると指摘している点である。
これに対応するかたちで、当該長期計画の中心的課題として、①人口および産業の過度集中の抑制ならびに分散、②市街地の再開発および市街地開発区域の整備、③生活環境および各種都市施設の整備、④産業構造の高度化および近代化、⑤社会福祉の向上と文教の振興の5つの事項を挙げ、その対策樹立を謳っている。
しかし、「都市施設の整備をはかるための公共投資の拡充と社会的、経済的改善をはかるための産業、社会福祉、文教その他の政策の充実を、両々相まって都政運営のかなめ」としつつも、「激化しつつある過大都市の諸弊害を打開し、近代都市の建設をはかり、合わせてオリンピック東京大会の開催に備えるためには、都市施設の整備が当面もっとも緊急の課題として取り上げられなければならない。よって計画期間中、前期において、とくに公共投資の拡充を配慮するものとする」との記述(第1章総論、第4節計画の性格と基本的方向)に、当時の時代背景が窺われる。

利根川水系における水資源開発計画

流量の多い利根川からの取水は東京水道の悲願であった。戦後ますます増大する水需要に対応するため、昭和28年(1953)、東京都総合開発審議会は水道拡張の水源として利根川からの引用計画を決定し、建設省、群馬県等関係官庁に働きかけを行った。翌29年にも厚生省等に対し、都の水道用水として利根川水源が不可欠であることを申し入れた。その結果、経済企画庁の斡旋で矢木沢ダム建設共同調査委員会が設立され、東京都、群馬県、東京電力の三者で、流量、地質、その他の調査を進め協議を重ねたが、水量配分について調整がつかなかった。
しかし、利根川の河水統制事業は国が直接実施することになり、昭和32年(1957)5月に「利根特定地域総合開発計画」が策定されたが、その中に多目的ダムとしての矢木沢ダム建設が盛り込まれ、利根川が東京都の水源になることが確定した。
昭和36年(1961)11月に水資源開発促進法と水資源開発公団法が公布され、国の施策として水資源の総合的な開発・利用を図ることになった。そして、翌37年には「利根川水系における水資源開発計画」(第一次フルプラン)が閣議決定され、これにより矢木沢ダム、下久保ダムからの水量配分が決定し、東京水道悲願の利根川取水が現実のものとなった。

河川・下水道の調整(36答申)

武蔵野台地の東端に位置する東京の山の手一帯には、いくつもの中小河川が流れており、これらの川は、かつては田園地帯を流れる清流であったが、下水道が整備されないままに進んだ流域の宅地化により、家庭や工場からの排水が直接川に流れ込み、晴天時には流水量の大部分を汚水が占めるようになった。さらに、上流部の宅地化などにより水源が枯渇して排水路となる川もあった。
さらに、流域の都市化の進展により、かつて遊水池としての機能を果たしていた農地が相次いで宅地化されたために土地の保水能力が大きく低下し、雨天時の洪水の危険性も増大させることとなった。
一方、周辺区部での下水道の整備は、昭和30年代半ばを過ぎても普及率ゼロに近い状態であった。また、現状のまま下水道が整備されたとしても、晴天時に河川が湿地化し、ごみ捨て場となってしまうことが危倶された。 
こうした中、都は昭和35年(1960)3月、東京都市計画河川下水道調査特別委員会を設置し、都内の排水問題についての検討を開始した。同委員会は、翌36年10月、河川と下水道のあり方について、次のような内容の答申(通称36答申)を行った。
 ①呑川・目黒川・桃園川など源頭水源を有しない14河川の一部または全部を暗きょ化し、下水道幹線として利用する。
 ②下水道幹線化する以外の区間についても、舟運上などの理由から特に必要な部分を除き覆蓋化する。
 ③覆蓋化された上部については、できる限り公共的な利用を図ることとする。
 ④暗きょ、覆蓋化にあたっては、狩野川台風並の降雨でも氾濫しない能力を与えることを原則とする。
都は、桃園川と渋谷川については、答申に先立ち昭和36年(1961)から暗きょ化工事を開始していたが、以後、他の河川についても順次事業を進め、覆蓋上部は遊歩道などとして利用されていった。

東京港港湾計画・東京港改訂港湾計画

戦後占領軍に接収されていた東京港であるが、接収が解除された昭和27年(1952)後は、東京港の港勢は年々発展の一途をたどったものの、はしけ荷役を中心に発達してきた関係から、他の大港湾に比べ施設の面では著しく立ち遅れている状況であった。
こうした状況の中、従来の港湾計画を抜本的に改め、港湾施設の拡充に加え、これら貨物輸送上の不経済と非能率を是正し、首都を中心とする広大な産業・経済圏の要求に合致する輸送形態に整えることを目的として、昭和31年(1956)4月、港湾法(昭和25年公布)に基づく初の「東京港港湾計画」(目標年次:昭和40年)が策定された。
しかし、その後も東京港の港勢は、日本経済の好景気に支えられ、飛躍的な増大をみせた。一方、東京の既成市街地が既に手詰まりの状況にあることから、東京の東南部の1/4を占める東京湾という空間について、港湾機能の役割に加えて首都圏整備構想推進の担い手として、東京港および埋立地を背後都市東京の都市計画や社会経済合理化計画の実現の場としても積極的に開発したいという要請が起こった。昭和36年(1961)、都は東京港を物資供給体制の近代化のために整備拡充するとともに、都市計画的観点に立ってマンモス都市東京と東京港とを有機的に結合することを基本政策として「東京港改訂港湾計画」(目標年次:昭和45年)を新たに策定することとなった。
東京港改訂港湾計画は、昭和34年公布の首都圏の既成市街地における工業等の制限に関する法律の趣旨を尊重し、工業のための埋立地利用を原則として行わないこととする一方、東京の地形構造の欠落部でもある東南部の海面を埋立て造成により補おうとしたことや、湾岸道路の発想など、大都市東京の都市問題の解決への積極的寄与を意図したことが特色であり、その後、都市港湾として、また商港として発展する東京港の性格を基礎づける港湾計画となった。

代表的な都市づくり

都市計画道路網の再検討

道路整備については、戦災復興事業では、GHQの指摘、国や都の財政事情もあって荒廃した道路の補修に重点を置くにとどまっていたが、その後、首都建設法、首都圏整備法の制定などにより、ようやく道路の新設・拡幅にも取組むことができる状況になった。
しかし、戦後の自動車の増加は予想をはるかに上回ったため、都内の道路は交通量に応じきれず、主要交差点は至るところで渋滞を引き起こしていた。
このような状況の中、都は、自動車交通に対応した効率的な道路計画に再編することを目指した再検討を行うこととし、昭和32年(1957)8月、東京都市計画地方審議会に環状六号線の内側を対象とする「東京都市計画街路の全面的改定及び整備計画の立案」について諮問を行った。改定計画の決定は昭和39年(1964)2月を待つことになるが、その内容は、幹線道路43路線・延長521km、補助幹線道路201路線・延長625kmに関するものであり、まさに、復興都市計画道路の全面改定であった。
改定では、都市構造上、都心部への集中形態を取り除き、衛星都市の建設と合わせて、区部に多心型の市街地を形成するとともに、昭和55年(1980)の道路交通需要にほぼ対応することを目指し、約20年間で完成することを目的とした。また、重要方向別に最も重要な幹線を選定するとともに、都市高速道路網の拡充強化をも考慮し、全都的な交通需要の均衡を図ることとした。
なお、同様の考え方から、環状六号線の外側についても引き続き再検討を行い、これについては、昭和41年(1966)7月に決定、告示された。

都市高速道路の当初計画

都心部における自動車交通の増大に対応し、道路交通容量の増強を図る方策として、道路の混雑緩和と一般平面街路からの通過交通の排除を行うため、自動車専用道路の整備が求められるようになってくる。
このような状況の中、昭和28年(1953)4月、首都建設委員会より都に対し、「首都高速道路に関する計画」の勧告がなされた。その内容は、首都における自動車交通の輻輳を緩和し、その効率化と高速化を図るため、一般平面街路と分離されほかの交通路と平面交差しない5路線、延長約49kmにわたる都市高速道路を建設するための計画策定についてであった。
都議会は、翌29年6月、都議会において、都市高速道路の計画にあたっては東京都市計画地方審議会の決定を経て行うよう付帯決議を行った。
また、建設省が昭和32年(1957)7月に「東京都市計画都市高速道路に関する基本方針」を決定した。
これらを受け、都では都市高速道路計画を審議するため、昭和32年(1957)8月に東京都市計画地方審議会の中に、東京都市計画高速道路調査委員会を設け、路線、線形、構造などの検討を開始した。第1回委員会で首都建設委員会案と東京都案の重ね図の説明がなされ、首都建設委員会案のルートに新しいビル建設が進んで実現困難な計画になったことなどから、東京都案をもとに審議が行われることとなった。短期集中的な審議を経て、昭和32年(1957)11月に、8路線62.5kmに及ぶ東京都市計画都市高速道路網計画案と7項目の付帯意見(将来、区部周辺まで延長するとともに、これらの路線を結ぶ環状型高速道路の計画について検討する 他)が高速道路調査特別委員会から答申された。
これを踏まえて、首都圏整備委員会は、昭和38年(1963)7月に策定した「首都圏整備計画」において、「既成市街地における都市高速道路整備計画」8路線91km(一部横浜・川崎を含む)を決定・告示した。
並行して、都は調査特別委員会の答申を受け、建設省など関係機関との協議を進め、都市高速道路計画の最終案を作成した。
昭和33年(1958)12月、東京都市計画地方審議会は、都市高速道路計画案を審議し、一部保留して、ほぼ原案どおり議決し、建設大臣に答申した。保留部分についても、翌34年8月、全線の都市計画決定が告示された。これが、「当初計画」(8路線、延長約71km)である。
当初計画の特徴は、おおむね環状六号線内側の地域において、幹線街路の補完的施設として、交差点の連続立体化を図る点にあった。
なお、自動車専用道路の建設にあたっては、事業の緊急性から強力な機関の設立が望まれ、昭和34年(1959)4月に首都高速道路公団法が国会において可決成立し、同年6月、首都高速道路公団が設立された。首都高速道路の建設は、昭和34年10月に建設大臣からの基本計画の指示を受け、同月、首都高速道路公団によって着工された。

都市高速鉄道網の再検討

東京圏の交通量は、昭和28年度には1日約1,200万人であったものが、昭和33年度には1日約1,750万人となり、5年間で1.5倍に増加し、路面電車を除くすべての輸送機関の輸送量が増大した。これは通勤ラッシュ、自動車交通量の激増というかたちで都民生活にも大きな影響を与え、公共輸送機関の輸送力増強の必要性が認識されるようになった。
このような状況の中、昭和30年(1955)7月、運輸省に都市交通審議会が設置され、運輸大臣から「大都市及びその周辺における交通、特に通勤、通学時における旅客輸送力の増強に関する基本計画」が諮問された。同審議会は、翌31年8月、「東京及びその周辺における都市交通に関する第一次答申」(都市交通審議会答申第1号)を提出した。この答申では、通勤・通学時の混雑緩和を主眼として、国鉄や地下鉄の輸送力の増強、国鉄・私鉄の相互直通運転、地下鉄の迅速な整備のための経営主体、路線整備の助成等についての提言がなされた。都はこの答申を踏まえて、東京都市計画地方審議会の中に調査特別委員会を設け、既定の「都市高速鉄道網計画(東京復興都市計画高速鉄道網計画)」の改定を検討、昭和32年(1957)6月、5路線108.6kmを都市計画決定した。
その後、昭和35年(1960)8月に都市交通審議会答申第4号、37年6月には同答申第6号が相次いで出され、激化する東京の交通問題への対応策が提言された。
答申第4号では、公共交通機関の輸送力整備増強問題にとどまらず、個人輸送機関である自動車等を含む路面交通全般の問題として検討が加えられ、その結果、道路交通の支障となっている路面電車の廃止を打ち出すとともに、路面交通需要をできるだけ地下高速鉄道に吸収させる新たな路線計画の必要性が説かれた。
また、答申第6号では、答申第4号を受けて、路面交通需要を高速鉄道に吸収して道路交通の混雑緩和を図るため、答申第1号の都市高速鉄道網を改定して、新たに10路線からなる高速鉄道網が設定された。これは現在の1〜9号線に近い路線網であった。
東京都市計画地方審議会は、この答申を受けて調査特別委員会で審議し、昭和37年(1962)8月、8路線177.5kmを都市計画決定した。10路線の内、8号線(有楽町線)および9号線(千代田線)ならびに5号線(東西線)の東陽町から船橋方面に向かう路線については、さらに線形や構造などについて調査する必要があるとして都市計画決定を見送った。これらの路線については、その後も検討が続けられ、昭和39年(1964)には9号線、翌40年には5号線が都市計画決定された。

公園緑地等の再検討

戦災復興計画の特別都市計画法に基づく公園・緑地は、昭和25年(1950)の事業見直しにより、大公園28か所、小公園41か所、緑地19か所の合計1,760haであった。また、市街地の無秩序な拡大防止と自然環境の保護および農地の保全を目的とした緑地地域は、同年12月には12,959haが指定されていたが、昭和30年(1955)3月には、大田、世田谷、中野、杉並、練馬、板橋、足立、葛飾、江戸川の9区、約9,870haへと縮小されていた。
しかし、これらの都市計画は終戦直後の焼け野原に対して計画されたものであり、その後の急激な市街化の進展と都の財政事情等により、その実施は困難な状況にあった。特に緑地地域は、郊外地にあって比較的地価も安いため、東京への流入人口の格好の住宅地として宅地化が進み、あぜ道がそのまま道路となり、宅地も不整形のまま市街地になるという環境不良の状態が生じていた。このような実情にそぐわない都市計画によって一般の建築行為を規制することは適当でないため、都はこれを実現可能な計画に再編することとした。
昭和31年(1956)3月、このことについて諮問を受けた東京都市計画地方審議会は、公園緑地調査特別委員会を設置して全面的な再検討を行った。
昭和32年(1957)12月、公園緑地調査特別委員会の答申のもとに、東京都市計画区域における公園緑地計画の全面的な改定が行われた。この計画は現在の公園緑地計画の骨格をなすものであり、昭和48年(1973)における区部推定人口を878万人とみなし、大公園75か所2,676ha、小公園356か所237ha、緑地14か所3,175ha、合計6,088haに及ぶ計画であり、一人あたり計画量としては約6.8㎡(計画量には一部多摩地区に決定したものを含む)であった。
緑地地域については公園緑地調査特別委員会で見直しが行われた後、その検討結果を踏まえて、昭和33年(1958)6月、都市計画地方審議会が答申を行い、その中で、首都圏整備計画の昭和50年(1975)の区部の適正人口860万人を収容するためには、さらに約2,708haの市街地面積が必要であるとされ、市街地面積の一部を緑地地域に求めることとし、条件付き(土地区画整理事業または一団地の住宅経営等を前提として、20%の公園用地を確保するか、くさび状緑地を極力保全する)で解除することが適当であるとした。また、保存緑地については、農業経営保全の助成策および建築取締規定を改正する必要があるとした。
都はこれを受けて緑地地域の改定および整備方針を定め、土地区画整理組合等の設立を勧奨した。この結果、世田谷区等の5区で35の土地区画整理組合が設立された(施行面積約2,000ha)。
しかし、昭和30年代後半から40年代にかけて市街化はさらに進み、人口の増加と住宅需要の増大に対処し、併せてスプロール化の防止を図るためには、緑地地域制度そのものの見直しが必要となる時代へと進んでいくことになる。

オリンピック渇水と緊急的上水道施設整備

戦後の東京の水需要は、日本経済の発展とともに急速に増加しており、特に昭和30年代後半から昭和40年代には、高度経済成長に伴う首都圏への産業と人口の集中が、東京における水需給を逼迫させたものとしていた。
東京水道の水源については、昭和32年(1957)に策定された「利根特定地域総合開発計画」により、悲願であった利根川水系からの取水が確定していた。
そのような状況の中、オリンピックに向けた緊急渇水対策として、昭和39年(1964)7月、河野一郎国務大臣の主宰により、関係各省庁の局長と水資源開発公団や都の関係者の協議が開かれた。協議では、「利根特定地域総合開発計画」により都の水源となることが確定し、工事施工中であった利根川からの通水を早期前倒しで行うことが最善の解決策との結論が出された。これを受けるかたちで、政府に設置されていた東京都水道対策連絡協議会が翌日厚生省で開催され、以下の事項が決定された。
 ①東京都と水資源開発公団は、利根川系導水工事の内、荒川取水関連工事を遅くても8月までに完了する。
 ②利根川・荒川間の導水路が完成するまでの間、緊急措置として埼玉県の了解のもとに荒川取水を行う。
 ③中川・江戸川系の取水は取水能力の限度まで行う。
これらの内容は、昭和39年8月に招集された臨時都議会において、「飲料水の確保に関する決議」「水不足解消に関する意見書」として満場一致で可決された。
これらのオリンピック向けた緊急渇水対策に基づき行われた荒川の秋ケ瀬取水堰および朝霞水路の繰上げ施工、東村山浄水場の新設、朝霞・東村山浄水場間の原水連絡管などの緊急的な施設整備の促進は、その後の大東京の水供給を支える大きな布石となった。

下水道整備の飛躍的進展

世界の注目を集めるオリンピック開催都市として、その名に恥じない環境と施設を整備することが、オリンピック関連事業の主要なコンセプトであった。しかし近代都市として不可欠な施設である下水道の普及率(面積普及率)は、昭和33年(1958)時点でわずかに19.8%にすぎず、この下水道整備の著しい立ち遅れが、東京に深刻な環境上・衛生上の問題をもたらしていた。当時、下水道は東京の都市基盤の中で最も整備が遅れているものの一つで、毎年の世論調査でも常に都民要望の上位にあった。オリンピックの開催は、この下水道の普及整備を促進する大きな契機となった。

都は昭和34年(1959)、「下水道拡張10か年計画」を見直し、総事業費を366億円から650億円に増額するとともに、計画最終年度である昭和41年度末の目標普及率を面積ベースで28.0%から42.2%に、人口ベースで39.5%から56.7%に引き上げるという大幅な改訂を行った。さらに昭和36年(1961)1月には、昭和48年(1973)までの区部全域の下水道普及を目標とした「東京都下水道整備計画」(事業期間:昭和32~48年、事業費2,100億円)を策定した。これにより、オリンピックを目指した下水道の整備に拍車がかかることとなり、事業費(拡張事業費決算額)は昭和34年(1959)の42億円から昭和37年(1962)には107億円に増加し、さらに38年には146億円、39年には215億円と急増していった。これはオリンピック関連の予算で最大となるものであった。この結果、昭和39年(1964)には面積普及率が26%に上昇し、山手線の内側ではほぼ下水道の普及が完了した。また、昭和37年(1962)4月には小台処理場が、昭和39年(1964)3月には落合処理場が稼動し、三河島・砂町・芝浦と合わせて、5処理場で汚水の処理が行われることとなった。また、森ヶ崎処理場についても昭和37年(1962)には建設に着手した。

オリンピック関連事業

オリンピック関連事業は、都市づくりの広い分野に及んでいる。この時期に実施された主なものとしては以下が挙げられる。

《道路》

・放射四号線と環状七号線を基幹とする22路線、延長54.6km
・交差部は原則立体構造(鉄道との立体交差18か所、主要幹線道路相互の立体交差26か所)

《港湾》

・晴海ふ頭客船上屋(船客待合所)
・晴海ふ頭外航貨客船桟橋2バース(2万トン級)

《公園》

・駒沢オリンピック公園
・明治公園
・代々木公園(代々木選手村、屋内競技場)
・馬事公苑

都市改造・市街地改造

戦後10年あまりが経過し、社会情勢もようやく安定してきたこの時代、特に、東京の復興はめざましく、産業の発展に伴い、経済活動も活況を呈していた。その結果、都市施設の整備が課題となり、中でも東京都心部では、自動車交通量の飛躍的な増加により幹線街路の整備が緊急の課題になっていた。こうした社会状況の変化に伴い、これまでの戦災復興事業中心の計画の見直しの必要性が叫ばれるようになった。このような中、昭和32年(1957)7月には、幹線道路の整備を柱とした「都市改造事業について」の建設省都市局長通諜が出される。
都ではこれに先立つ昭和32年3月、東京駅八重洲口付近の都市改造を目的として、駅前広場の築造と付属街路の整備を図る土地区画整理事業に着手していた。
また、翌33年には、国道1号の改築と首都高速道路用地の確保を図るため、品川区西大崎地区を事業化した。その後、昭和40年(1965)まで、公共施設整備の緊急性について検討を重ねながら、各地で事業化を図り、新宿区三光町地区など、12地区、約146haに及ぶ都市改造土地区画整理事業を施行した。新宿区の三光町地区、文京区の小石川地区については、地区面積が国庫補助事業としての採択基準をかなり下回ったため、都単独費を持って施行した。
一方、既成市街地における公共施設の整備と建物の高層化、不燃化を実現するため、公共施設の整備に関する市街地の改造に関連する法律(市街地改造法)が昭和36年(1961)6月に公布・施行された。
都ではこれを受け、昭和36年12月、市街地改造事業の第1号として、新橋駅付近の事業施行を決定した。同地区の東口地区(1.44ha)は昭和41年(1966)8月に完成、西口地区(1.51ha)は昭和47年(1972)3月に完成をみている。
市街地改造法は、昭和44年(1969)6月、同法と同時に施行された防災建築街区造成法とともに、都市再開発法の成立を受けて整理・統合されたため、新橋駅付近の事業が、この法律に基づくものとしては、東京では最初で最後の事業となった。

容積地区制度による超高層時代の幕開け

昭和36年(1961)、建築基準法が改正されて特定街区制度が導入され、昭和38年に従来の31mの絶対高さ制限に代わって容積地区制が採用されることになる。
これを受け、東京の都市づくりは超高層時代という新しい時代を迎える。これらの制度改革の背景には超高層建築を支える建設技術の進歩があることはいうまでもないが、同時にこの時期、日本経済の発展により高度利用への圧力がますます大きくなったことも重要な要因の一つである。
日本初の超高層建築である霞ヶ関ビルは、昭和38年(1963)には早くも着工し、昭和43年(1968)に完成した。
また、昭和35年(1960)には、昭和33年の首都圏整備計画に位置づけられた新宿副都心の開発方針を受けて新宿副都心開発公社が設立され、東京都との共同計画が進められていたが、昭和40年(1965)には第10種容積地区(容積率1,000%)の最高の容積率指定を受けた。
新宿副都心は、戦前のターミナル整備計画で位置づけられ実施された新宿駅西口整備事業に続くもので、当時実現できず持ち越された淀橋浄水場跡(約34ha)を中心とする約56haの再開発であり、超高層、高容積率時代の本格的な幕開けを告げることとなった。

大規模団地の建設

東京への人口集中が著しく、居住環境の良好な住宅地の大量供給の必要性が高まる中、大都市の中産階層への住宅供給を企図して、昭和30年(1955)に日本住宅公団が発足した。公団住宅は耐火構造で、居住者は若いサラリーマン世帯が多かったことから、団地族という名称も生まれた。都内では山の手の荻窪団地、阿佐ヶ谷団地(ともに昭和33年完成)や、下町の青戸団地、晴海の高層団地(昭和32年完成)等が建設されるなど、昭和30年代前半には毎年約6,000戸から7,500戸の大量住宅が建設された。
特に、都市計画法に定める「一団地の住宅施設」は、住宅建設に 合わせて道路、公園、上・下水道を整備することにより用地の効率的利用と住環境の向上を図ることを目的として設けられた方式であり、大規模団地の建設促進に大きな役割を果たした。昭和29年度から建設された北区の桐ヶ丘団地はこの方式を活用したものであり、都営住宅の中でも代表的な大規模団地であった(昭和38年完成)。昭和30年代には、足立区上沼田ほか周辺区部や多摩地区において、この方式により24地区の大規模団地が建設された。
しかし、昭和30年代後半に入ると、生活水準の向上とともに、公営住宅も質の時代を迎える。公営住宅の建設に際しても都市計画的な観点から、既成市街地内部の不燃立体化による都市改造と、周辺部における計画的な大団地の建設が目指されるようになる。昭和39年(1964)にははじめての高層都営住宅として、台東区小島町アパート(170戸、11階建て)の建設が着手される。
なお、これらの大規模団地の建設に先立って、都建設局による宮益坂アパートが昭和28年(1953)5月に完成している。このアパートは公営高層分譲マンションの第1号であり、区分所有の概念もまだなかった時代であり、ここでの経験、試行錯誤が昭和37年(1962)の建物の区分所有等に関する法律の制定に繋がり、大規模マンション建設の法的な基盤となった。
宮益坂アパートは、1階が店舗(20戸)、2〜4階が事務所(36戸)、5〜11階が住宅(70戸)という店舗併用複合ビルの走りでもあった。

都市計画駐車場の整備

都市における自動車の保有台数の増加に伴い、駐車施設の不備のため道路に駐車する自動車が増え交通の障害となる状況が現れ始めた。これらに対応するため、駐車施設を整備し道路交通の円滑化を図ることを目的として、大規模建築物における駐車場附置義務を定めた駐車場法が昭和32年(1957)5月に公布(翌年2月施行)された。都においても、翌33年10月、駐車場条例を公布・施行し駐車場対策を開始した。
一方、都市計画法に基づく都市計画駐車場については、昭和33年(1958)11月、特に道路交通の激しい都心部の商業地域について、東京駅を中心とした約11.26㎢を駐車場整備地区として指定した。
駐車場整備地区は、その後も順次、新宿、池袋、渋谷、上野・浅草地区と指定を拡大し、駐車場整備地区における都市計画駐車場の建設を進め、昭和35年(1960)には、八重洲第一駐車場、日比谷駐車場、丸の内第一駐車場が相次いで竣工した。
しかし、駐車場の建設には、当時から用地の確保が難しく、道路下等を活用して整備を図る例が多かったが、事業費が多額となり、駐車場事業で採算をとることはかなり困難であった。そのため、駐車場に地下街を併設する要望が出され、昭和39年(1964)、地下街併設型駐車場の第1号として新宿駅東口地下駐車場が竣工した。
その後も、池袋東口、八重洲に地下街併設型の駐車場が整備された。

江東内部河川の整備

外かく堤防に囲まれた江東デルタ地帯の内部河川の護岸は、度重なる護岸の嵩上げにより脆弱化が目立ち、大地震時の護岸損壊による水害の発生が危惧されていた。
このような状況に対応するため、昭和46年(1971)の江東防災総合委員会(建設大臣諮問機関)の提言に基づき、「江東内部河川整備計画」を立案した。この計画は、耐震対策河川事業として昭和46年より実施した。その基本方針は、各河川の排水機能・利用状況や背面地盤高などから、耐震護岸の整備、河川水位の低下、埋立・暗きょ化の三方式によって内部河川の耐震性を向上させるとともに、外郭水門が閉鎖される高潮襲来時などにおける河川内水排除対策を充実させるものである。
具体的には計画対象地域を北十間川樋門および扇橋閘門を境として、東西両地区に二分し、地盤が比較的高く舟運利用が盛んな西側は耐震護岸方式とし(扇橋閘門より西の小名木川、大横川等)、地盤が特に低く災害に危険な東側は、平常水位を人工的に周囲の地盤高程度まで低下させたうえで、護岸や河道の整備を行った(北十間川、横十間川、小名木川等)。
また、雨水排水効果の少ない河川は、計画外河川として埋立て・暗きょ化により公園などの土地利用が図られた(竪川、仙台堀川の一部、横十間川の一部、古石場川など)。
昭和46年度より、河道整備の一部、扇橋閘門ならびに木下川排水機場に着手し、昭和53年(1978)12月から内水位は常時A.P.±0.0m に低下している。平成5年(1993)3月以降では常時A.P.−1.0mに低下し、その後、事業は現在に至るまでも継続的に進められている。

Ⅳ期1966〜1980年(昭和41〜昭和55年)巨大都市東京の深刻化する都市問題への対応の時代

◆第三次首都圏基本計画(1976年策定:目標年次1985年)
「大学等について、首都圏への集中を極力抑制し、東京都区部から既成市街地以外の地域に分散する」「工業について、首都圏全体としてその著しい拡大を避け、東京大都市地域からの分散を積極的に推進する」など、中枢管理機能の集中抑制、分散の方向性が打ち出された。また、今後も続く都市の膨張に対しては、連続的な市街化を避けながら、中心性を有する多数の核都市を育成することによって、多極構造の都市複合体の形成が目指された。

昭和43年(1968)
「第二次首都圏基本計画」の決定
昭和43年(1968)
都市計画法の公布
昭和44年(1969)
東京都公害防止条例の公布
昭和45年(1970)
建築基準法の集団規定の全面改定
昭和46年(1971)
「広場と青空の東京構想試案」の発表
昭和51年(1976)
「第三次首都圏基本計画」の決定
昭和55年(1980)
都市計画法および建築基準法の一部改正(地区計画制度の創設)

社会背景と都市の様相

昭和40年代に入ると、昭和30年代から続いた高度経済成長の歪みが顕在化し始めるようになる。全国的にも四日市ぜんそくや水俣病が問題化、東京でも大気汚染や水質汚濁などが深刻化し、環境問題に大きな関心が注がれた。
経済的には高度経済成長が続いていたが、昭和49年(1974)、第四次中東戦争に端を発するオイルショックが発生する。オイルショックは日本経済と日本人の生活習慣に警鐘を鳴らす出来事であり、市民の価値観や生活意識に大きな変化を生み出した。
またこの時期、時代の要請に応えるかたちで都市計画法が改正され、都市づくりの主体が国から地方へと移るとともに、住民参加の枠組みもでき上がり、都市づくりは新しい局面を迎えることになる。
昭和52年(1977)には「定住構想(定住圏)」を柱とする「第三次全国総合開発計画」が閣議決定され、大都市への人口と産業の集中を抑制し、地方振興を図る方向性が示された。
東京の人口は相変わらず増加を続けていたが、この頃より増加傾向に変化が見られ、全体的な増加傾向の鈍化、区部では逆に減少傾向を見せ始めるようになる。
一方、オリンピック後、都の財政状況は逼迫し、巨大化する東京に対する基盤整備は追いつかず、幹線道路の渋滞、通勤鉄道の混雑はより一層深刻な都市問題となっていた。また、既成市街地においても、依然として防災上の課題を抱えるとともに、自動車公害問題や過密や狭隘な生活道路への通過交通の進入など、生活環境の悪化が新たな都市問題として深刻化してきた。
都政については、昭和42年(1967)4月、都知事選で美濃部亮吉が当選し、都政史上初の革新都政が誕生する。美濃部知事は、住民対話を基本理念とし、高度成長により激化した公害の対策に積極的に踏み出す。

都市づくりの構想・計画とそれを支える制度

首都圏基本計画

《第二次首都圏基本計画:昭和43年10月》
第一次の首都圏基本計画策定(昭和37年7月)後も、経済の高度成長に伴い首都圏(都心を中心とした半径100kmの区域)への人口と産業の集中は激しく、特に都心から50km圏内の人口が著しく増加した。
第一次首都圏基本計画において、既成市街地の膨張を抑えるべくグリーンベルトを設定する予定であった「近郊地帯」では、遮断地帯として強い建築規制等を伴うため、地元の反対にあって現実には地域指定ができなかった。また、予想を超えた人口圧力に抗しきれず、スプロール現象が生じてしまったため、グリーンベルト構想は見直さざるを得なくなっていた。
こうした状況から、首都圏整備委員会は、グリーンベルト構想を放棄し、新たに首都と社会的・経済的に密接な関係にある半径50km圏内の地域を一体として、総合的な土地利用構想を立て、計画的な市街地の展開を図るとともに、大規模に緑地を確保して、自然環境を保全するという、いわゆる「50キロ圏構想」(「既成市街地周辺地域の土地利用について」昭和39年6月、首都圏基本問題懇談会報告)の考え方を取り入れて大幅な方針転換を行うこととなった。こうして、昭和40年(1965)6月、首都圏整備法の改正が行われた。
主な改正点は、それまでの「近郊地帯」を廃止し、新たに「近郊整備地帯」を設け、この地域を「既成市街地の周辺部の無秩序な市街化を防止し、計画的な市街地の整備と緑地の保全を図る区域」として、広域的かつ総合的な土地利用を図るとともに、従来の「市街地開発区域」を「都市開発区域」と改称し、従前の工業都市、住居都市の機能に加え、研究学園都市、流通都市その他の性格を有する都市としても育成できるようにしたことであった。なお昭和41年(1966)に、首都圏の圏域は、従来の都心を中心とした半径100kmの区域から、東京・埼玉・千葉・神奈川・茨城・栃木・群馬・山梨の一都七県の全域とされた。
首都圏整備法の改正に伴い、昭和43年(1968)10月、新たに「第二次首都圏基本計画」が策定された。その内容は、目標年次(昭和50年)の首都圏内の人口規模を3,310万人と想定。激化する国際競争の中で首都圏がわが国の発展を支える先導的地域としての役割を果たすために、過密の弊害の解消を図るとともに、効率の高い広域社会の建設を進めながら、首都圏全域を健康で豊かな生活のための地域社会として整備することを基本課題としていた。
整備の基本的方向は、首都圏の各地域がそれぞれ最も適した機能を分担し、相互に効率的に補完しあいながら一体となった巨大な地域複合体として構成されるよう、首都圏全域の整備を進めることとしていた。またこの計画は、首都圏全域を、既成市街地、近郊整備地帯、都市開発区域の3地域に区分し、以下の機能分担を図ることとした。
 ①既成市街地は、中枢管理機能を分担し、わが国の政治、経済、文化等の中心地として、また、国際的活動の中心としての役割を担う。
 ②近郊整備地帯は、都市型工業、臨海立地を必要とする工業、資本集約的農業の場を確保し、日常生活機能の適切な配置を図る。
 ③都市開発区域は、積極的な工業開発と近代的高生産性農業の振興を図るとともに、大規模な複合的機能都市を育成する。
《第三次首都圏基本計画:昭和51年11月》
首都圏の整備事業は、第一次、第二次の首都圏整備の基本計画、整備計画等により推進されてきたが、既成市街地およびその周辺地域への人口と産業の集中は依然として著しく、また社会資本の不足と相まって、公害発生、住宅難、通勤難、交通渋滞、住環境悪化等の過密の弊害がますます深刻化した。
昭和48年(1973)8月に発表された「新全国総合開発計画」(昭和44年度策定)の総合点検作業の中間報告では、「巨大都市における諸活動は、今日ぎりぎりの限界におけるバランスの上に成り立っており、わずかな災害、事故等の発生により広範な機能の麻痺状態を来たし、とりわけ、東京圏の機能麻痺は全国にわたって著しい障害をもたらすことになりかねない」との認識を示したうえで、「限界を越えて集中傾向のある人口や産業を抑制し、地方都市や農山漁村の整備を行い、地方における人口や産業の定着性と収容の能力を充実するとともに、巨大都市における生産機能のみならず中枢管理機能の選択的分散を強力に推進しないかぎり人口や産業の集中はさらに続き、巨大都市における生活環境は、一層悪化する恐れがある。このような事態を招かないため、今後人口や産業の地方分散を一層強力に推進しなければならない」とした。
昭和51年(1976)11月に決定された「第三次首都圏基本計画」は、このような考え方を首都圏について展開したものであり、第二次首都圏基本計画とは対照的なものであった。
すなわち、第二次首都圏基本計画が、中枢管理機能を首都圏中心部で分担すべき機能として位置づけたのに対し、中枢管理機能の集中抑制、分散の方向を打ち出し、「中枢管理機能その他業務管理機能については、東京大都市地域におけるその集積と同地域から選択的に分散を図ることとし、その方策について検討するものとするが、当面・・・・・・これらの機能の東京都心への一極依存形態を是正し、東京大都市地域に広く、多核的に配置することを図る」とした。そして、「大学等について、首都圏への集中を極力抑制し、東京都区部から既成市街地以外の地域に分散する」、「工業について、首都圏全体としてその著しい拡大を避け、東京大都市地域からの分散を積極的に推進する」、「豊かな地域社会の形成をはかる」、「地震時の災害への対応を地域整備上もっとも基礎的な条件として重視する」などの政策が挙げられた。
人口は首都圏で抑制するとして、昭和60年(1985)の人口を3,800万人と想定したが、東京大都市地域では極力抑制し、北関東等の周辺地域で適度な増加を図るとした。東京大都市地域では、経済の高度成長期に生じた都市環境のひずみを是正するとともに、今後も続く都市の膨張に対しては、連続的な市街化を避けながら、中心性を有する多数の核都市を育成することによって、多極構造の都市複合体の形成を図る、というのが整備の方針であった。しかし、集中抑制のための具体的な方策には触れられていなかった。事務所規制についても、首都圏における過密対策研究会(昭和45年9月に首都圏整備委員会の委嘱を受けて発足)等で検討されたものの、実現には至らなかった。

新しい都市計画法の制定と都市開発の枠組み

昭和43年(1968)、新しい都市計画法が公布(翌年施行)され、また昭和45年(1970)には建築基準法集団規定の全面改定が行われ、新しい都市計画制度の大枠が定まった。
新しい都市計画法は、大正8年(1919)以来の旧法が計画決定の権限を国に与えていたのに対し、これを都道府県知事および市町村長に委譲した点、また住民参加の道を開いた点で画期的なものであった。
また、新法制は、従来の都市施設中心の都市計画から土地利用計画中心の都市計画への転換を意図し、制度的には、①市街化区域と市街化調整区域の区域区分の創設、②区域区分と関連した開発許可制度の導入、③用途地域制の細分化と容積率制限の全面的採用といった特徴を有していた。
新しい都市計画法の制定とほぼ時期を同じくして、昭和44年(1969)には、それまでの再開発2法(市街地改造法、防災建築街区造成法、ともに昭和36年制定)の実績と制度上の問題点を整理、発展させたかたちで、都市再開発法が公布・施行された。都市再開発は、権利者の参加による権利変換システムを基盤とした市街地再開発事業の体系をつくり出し、新住宅市街地開発法の公布(昭和38年)や総合設計制度の創設(昭和45年)などと相まって都市開発は新たな展開をみせることになる。
この時期に法制化された、都市計画法や都市再開発法、特定街区制度、総合設計制度といった新しい都市開発の法制により、市街地内の限られた土地の高度利用や有効活用が進むこととなった。そして、これらの諸制度を活用して、この時期、西大久保地区(昭和47年都市計画決定)、飯田橋地区(昭和47年都市計画決定)、白鬚東地区(昭和47年都市計画決定)など多くの市街地開発事業が事業化された。

用途地域の見直し(新しい都市計画法に基づく当初指定)

昭和43年(1968)の新しい都市計画法の制定、昭和46年(1971)1月の建築基準法の改正により、用途地域の基本地域が4種類から8種類に細分化されると同時に、専用地区(住居、工業)が地域に変更された。また、これまで建ぺい率、容積率を規定していた空地地区、容積地区は廃止され、代わりに各用途地域の中に建ぺい率規制、容積率規制が数種に分けて組み込まれるかたちとなった。さらに、従来は高度地区を重ねて指定して北側隣家に対する日照を確保してきたが、用途地域(第一種および第二種住居専用地域)そのものにも北側斜線の制度が取り入れられることとなった。
しかし、このような改正内容については、都の都市計画としては既に各種の地域地区の複合指定により実施していたため、計画当局にとっては特に新しい制度の創設と受け止める認識は弱かった。当時としては、技術的な内容よりも、住民参加を全面的に打ち出した公聴会、縦覧等を内容とする指定手続きが大きな変化と認識された。

シビル・ミニマムと東京都中期計画

昭和42年(1967)4月の選挙で都知事となった美濃部亮吉は長期計画の策定には消極的であったが、当選後の2月議会の中で、一転して夏休み明けまでの策定を表明した。
これに基づく策定作業の中で、知事のいう長期計画と事務当局の考える長期計画との間の認識の差が明らかになり、最終的には、「実現すべき目標をシビル・ミニマムとして掲げ、実現までの全体計画も示すが、予算編成の基準となる行財政計画としては三か年計画とする」ことで決着し、昭和43年12月に「東京都中期計画1968年〜いかにしてシビル・ミニマムに到達するか」を策定した。

広場と青空の東京構想試案(1971)

「広場と青空の東京構想試案1971」は、美濃部知事が、昭和46年(1971)4月の再選選挙にあたって、その前月の3月に発表したものである。当時の東京は、引き続き人口・産業の集中が続き、昭和45年(1970)10月現在の東京都の人口は1,140万人、5年前に比べて53万人増加という状況であった。しかし、人口が増加したのは多摩地域で、区部では逆に減少しているという状況であり、東京のドーナツ化現象がさらに拡大していた時代であった。そして、このことが、住宅難、通勤難という都市問題を引き起こしていた。一方、公害問題の深刻化など、巨大都市問題が顕在化し始めた時期であった。
美濃部都政第1期の昭和42年(1967)7月、長期計画についての庁内会議で、美濃部知事は「まず都政白書を出し、そこで東京が抱えている問題を取り出す。まず問題提起があり、それを受けて長期計画がある」との発言を行った。そして、昭和44年(1969)5月、「東京を考える」という都政白書を発表した。これを受け、知事は住宅、交通、中小企業などの課題ごとに長期計画を作成するということで、8つの課題を立て、これを各局に指示したが、昭和45年(1970)5月、総合的な長期計画を作成することに方針転換した。知事の「基本的な問題は外部の人を入れて行う」という方針で、9月に学識者らを交えたミーティングが開始された。
「広場と青空の東京構想試案1971」は、東京の現状に対して、美濃部候補が都民に示した都市改造の構想であると同時に、再選後の都政における都市改造の基本的指針としての重要な役割を果たすべきものであった。
策定にあたっては、各局が温めて持っているものを督励し発掘することから始め、企画調整局をはじめ関係各局のメンバーで構成する「長期構想プロジェクト・チーム」を編成するとともに、浅田孝を中心とする学識経験者グループにより取りまとめられた。
構想は、都民参加による都市改造、シビル・ミニマム実現のための都市改造など7つの原則を提示した。「広場」は都民参加を象徴し、「青空」はシビル・ミニマム実現による環境の改善を表現するものとしている。
当該構想が提示する都市構造に着目すると、産業軸、生活軸、流動軸(西関東軸・北関東軸)の3軸構成を提示したうえで、生活軸の質的向上強化を図っていくために、都心を頂点とする1点集中型から立川・八王子地区に新たな極を構成して2極構造に移行することを提示している。

環境行政の本格化

東京都の環境対策は先に記したように、戦後の急激な経済復興とそれにより発生した公害問題への対応として、昭和24年(1949)、他の自治体に先駆けて、日本初の公害規制法規として公布した東京都工場公害防止条例に始まる。
その後の、街頭騒音防止のための「騒音防止に関する条例」(昭和29年)、都心部のビル暖房の煙害防止のための「ばい煙防止条例」(昭和30年)により、公害対策の制度がつくられた。
戦後経済復興の時代に対応が始まった東京の環境行政は、東京の巨大化に拍車がかかったこの時期に本格的な対応に踏み出していく。その象徴的な例が、汚染発生源に対して国の法律より厳しい排出削減を求め、昭和43年(1968)に東京電力との間で結んだ大井火力発電所に関する公害防止協定(覚書)である。そして、この協定の実効性の確信に基づき、翌44年には東京都公害防止条例を公布するに至ることになる。
この間、国政レベルにおいても、従来の公害行政への反省のうえに、昭和42年(1967)7月、以後の公害行政の基本的方向を示す公害対策基本法が制定されたが、大部分が理念にとどまるとともに、「経済発展との調和」の原則が盛り込まれたことなどにより、現実の公害対策に十分な効果を発揮し得るものではなかった。そのような中、ますます激化、深刻化する公害問題に対し、昭和45年(1970)11月には、「公害国会」と呼ばれる臨時国会が開催され、公害問題に関する法令の抜本的整備が審議された。当該国会では、公害関連14法案が可決されるとともに、「経済発展との調和」の文言も削除された。
これらを受けるかたちで都では、昭和46年(1971)1月に「都民を公害から防衛する計画」を策定した。この計画の特色は、達成すべき目標値を都独自の立場から定めたことであり、その内容は、単に公害の監視や規制といった直接的な公害対策にとどまらず、道路・住宅・下水道など都政の中で公害防止に関連するすべての施策を総動員したものであった。この中では、昭和44年(1969)施行の都市計画法により、都市施設としての法的な位置づけが規定された下水道に関して、昭和53年度末における区部下水道普及100%の目標が立てられ、重点的な整備が進められた。
その後、生活環境を含めより複雑化・多様化していく環境問題に対応することから、昭和55年(1980)に、東京都環境影響評価条例が公布(翌年施行)される。

代表的な都市づくり

都市計画道路の再検討

都市計画道路については、先の昭和39年(1964)に環状六号線の内側、昭和41年(1966)には環状六号線の外側の道路計画の改訂が行われてきた。しかしその後、昭和50年代に入ると、区部の主要道路においては交通渋滞が慢性化し、また、騒音、排気ガス、振動等の環境問題も深刻化の度合いを増していた。さらに、区部の中でも特に周辺部においては、道路整備の遅れにより、依然として歩道のないバス路線が多数あること、震災時等消火活動の際に道路の不足する区域が多く分布していること、また住居系地域においても区画街路に通過交通車両が進入して生活環境の悪化や交通事故の発生をもたらしていることなど、様々な問題が生じてきていた。加えて、交通需要は増加の一途をたどっていたため、道路交通需要に対して道路整備が追いつかず、道路交通の全面的危機を迎えようとしていた。
昭和51年(1976)の区部における都市計画道路整備状況は、計画延長1,614kmの内、完成延長約723km(完成率45.4%)と大幅に遅れたため、都は、道路の都市計画決定により建築制限を課されたまま長年放置されている地権者の善処を求める声への対応にも迫られた。
このような状況の中、昭和51年(1976)6月に開かれた東京都都市計画地方審議会において、東京都市計画道路調査特別委員会が設置され検討が行われた結果、昭和53年(1978)5月、東京都都市計画地方審議会が「東京都市計画道路再検討の基本方針及び基準」を答申、翌54年12月には「東京都市計画道路再検討の素案について」を答申した。
都はこの答申を受けて、特別区への意見照会および地域住民への周知を図り、素案における都市計画変更箇所48か所のうち地元との未調整等から6路線を除外する一方、素案に提示されなかった9路線について、区からの意見や地元住民等からの要望を受けて検討を行った。その結果、「東京都市計画道路再検討の都案」が作成されるに至った。都案の各路線については、それぞれ都および関係区において都市計画変更の手続きが進められ、区決定路線については昭和56年(1981)1月に、知事決定路線については同年2月に認可・承認された。
この道路再検討においては、現実的な解決策として、今後優先的に整備を進める路線を「前期事業化予定路線」として明示するとともに、それ以外の路線の区域内を対象に建築制限の緩和を実施した。事業化計画については、昭和56年4月、おおむね昭和65年(1990)までに都市計画道路事業として完成もしくは着手する路線として、87か所、74路線、延長約98km、事業費1兆円(総事業費計3兆7,000億円)を決定した。
建築制限の緩和措置に関しては、昭和49年(1974)頃より建設省と協議を進める一方、東京都市計画道路調査特別委員会での審議と併行して具体策を検討した結果、昭和56年(1981)4月から、①建築物の敷地が防火地域内かつ商業地域もしくは近隣商業地域内にあり、容積率が300%以上であること、②建築物の敷地の内、都市計画道路以外の区域が100㎡以内であること、③建築物の階数が3、高さが10m以下で地階を有さず、主構造物が鉄骨造、コンクリートブロック造、その他これに類する構造であること、④建築物が都市計画道路区域の内外にわたる場合、将来分離することが容易であることを要件として、都市計画法第53条に基づく知事の特別な許可により、都市計画道路区域内に3階建ての建築が可能となった。

首都高速道路の延伸計画と都市間高速道路との接続

首都高速道路については、先の時代におおむね環状六号線内側において当初計画に基づいて整備が順次進められてきた。この時期には、基幹的都市施設としてのネットワークの強化として、国土幹線道路との接続が目指されることになる。
オリンピック大会の2か月前の昭和39年(1964)8月には、延長約32.8kmが供用開始された首都高速道路であったが、東京の道路交通渋滞はその後も深刻化し、特に環状六号線外の区部およびその周辺の既成市街地に蔓延したことや、東名、中央、東北、常磐等の都市間高速道路などの計画および建設の進捗に伴い、昭和30年代後半には早くも、首都高速道路の延伸を求める声が高まった。
延伸計画に向けての取組みは、昭和36年(1961)3月に、都知事の諮問機関である首都交通対策審議会から答申がなされたことから始まる。答申では「区部周辺に長距離高速道路を受ける外環状路線を設けるべき。都心環状線と外環状路線の中間地帯に地理的条件を勘案のうえ第2環状線を設けるべき。(中略)放射路線は外環状路線まで延伸する必要がある。」といった旨が示された。
これらを受け都では、昭和36年度から建設省委託調査として大都市幹線街路調査を実施し、この中で都市高速道路の延伸計画の検討を開始した。また、建設省関東地方建設局においても、昭和36年度から外かく環状線の比較路線の検討調査が始まった。
このような中、昭和37年(1962)1月には東京都知事宛てに建設省都市局長より「路面交通激化に対処するため、内閣に臨時都市交通関係閣僚懇談会が設置されたので、当面の問題として早急に首都高速道路の追加等の具体案を推進されたい」という内容の通達がなされた。
大都市幹線街路調査を経て、都は昭和39年度、中央環状線、内環状線の2環状と11路線、延伸計画118km、既定計画71kmを合わせ、合計延長189kmの首都高速道路延伸計画を提案する報告書を取りまとめた。
この報告を受け、本調査資料を土台に、昭和40年(1965)9月、第12回東京都市計画高速道路調査特別委員会が開催され、首都高速道路の延伸計画の検討が開始された。最初に、同委員会は、外かく環状線のほか3号線、4号線の延伸計画の審議を行い、これら3路線は、東京都市計画地方審議会の議を経て、昭和41年(1966)に都市計画決定された。
高速道路調査特別委員会の審議の過程では、大都市幹線街路調査の提案網に対して、6車線化、設計速度の引き上げなど様々な意見が交わされた。その中で、6車線化や設計速度を引き上げて曲線半径を大きくすることは用地取得などの面で困難となるため、首都高速道路については、ランプの利用圏域をできるだけ小さくするよう高速道路網の密度を高める対応が図られることとなった。このため、提案の計画網を一部修正し、さらに城南方面に2号線延伸の1路線、城東方面に11号線の1路線を追加し、それぞれの方面の将来交通需要に対処することとなった。
併せて、平面街路についても、幅員27mや33mなどの路線の内、必要な区間については連続立体交差化などにより拡充強化を図ることが提案説明され了承された。
昭和43年(1968)3月の第18回の高速道路調査特別委員会において、既定計画は外かく環状線を含めて121km、追加延伸計画は148km、合わせて23区としては269km、区域外(他県分)は67km、総合計336kmの延伸計画が提案され了承された。
昭和43年(1968)の高速道路調査特別委員会で了承された首都高速道路の延伸計画は、路線ごと、区間ごとに計画の熟度に応じて、首都圏整備計画への位置づけや都市計画決定がなされてきた。
昭和45年(1970)、第二次首都圏整備計画において、中央環状線、内環状線、1号2期、10号などが整備促進路線として位置づけられた。また早期建設路線として、外かく環状線が位置づけられた。
中央環状線は、整備促進路線に位置づけられ、以後逐次都市計画決定され、整備が進み、平成27年(2015)3月、全線開通した。
一方、内環状線(墨田区付近〜新宿付近)は同じく整備促進路線に位置づけられたが、その後、計画を進める路線から、調査を推進する路線に見直された。
湾岸線(辰巳JCT〜高谷)については、昭和47年(1972)7月に都市計画決定され、昭和57年(1982)4月に供用を開始している。
外かく環状道路は、昭和37年(1962)に調査路線に位置づけられ、昭和41年(1966)の都市計画決定を経て、昭和45年(1970)に早期建設路線に位置づけられた。その後進展がみられなかったが、関越道から東名までの区間について、平成19年(2007)に高架式から地下式へ都市計画変更が行われ、平成21年(2009)5月に整備計画を決定し、同年度に事業化した。
このように、路線ごと、区間ごとに整備の進捗が大きく異なることも、延伸計画の大きな特徴のひとつである。延伸計画では関係市町村の意見聴取と住民参加(縦覧、意見書、説明会、必要に応じて公聴会)が制度化された新しい都市計画法の制定(昭和43年)と環境影響評価などが行われるようになった。
首都高速道路の延伸計画の大きな目的の一つであった、国土幹線道路との接続について具体的にみると、3号線の延伸(渋谷〜用賀)は、先に示したように、昭和41年(1966)7月に都市計画決定がなされ、その後、昭和46年(1971)12月に供用開始され、東名高速道路と繋がった。
4号線Ⅱ期(幡ヶ谷〜高井戸)についても、昭和41年(1966)7月に都市計画決定がなされ、昭和48年(1973)8月に供用開始され、昭和51年(1976)5月の全線開通で中央自動車道と繋がった。
常磐自動車道方面については、昭和45年(1970)5月、6号線Ⅱ期(向島〜三郷)の延伸が都市計画決定され、昭和60年(1985)1月に供用が開始され常磐道と繋がることになる。
東北自動車道方面については、川口線(千住新橋〜川口)が昭和45(1970)年9月に都市計画決定され、昭和62年(1987)9月に供用開始され、東北道と繋がった。

鉄道の輸送力増強

この時期、市街地の拡大に伴い、公共交通の輸送力の強化が求められるようになる。
地下鉄については、先の時代にネットワークの骨格が決定していたが、これらの建設促進に向けて、昭和37年(1962)に地下高速鉄道建設費補助金交付規則が制定されるなどの対応により、建設費補助の制度が整っていくことで地下鉄建設が加速化していく。
なお、地下鉄への転換を謳った都市交通審議会6号答申では、路面電車の廃止を打ち出していたため、明治36年(1903)以来長きにわたり、東京都民の足を支えてきた路面電車はこの時期に軒並み廃止されていくことになる。都電廃止の第1号は昭和38年(1963)の都電杉並線であるが、これはまさに、前年の地下鉄丸の内線(新宿〜荻窪間)の開通に起因するものであった。そして、昭和42年(1967)の第1次都電撤去により銀座をはじめ都心部の路面電車が廃止され、その後も第7次までの都電撤去が実施され、昭和47年(1972)には、荒川線以外のすべての路面電車が姿を消した。
一方、私鉄各線では、旅客輸送力強化のため、複々線化、連続立体交差化、地下鉄などとの相互直通運転がこの時期次々と実施される。
 東武鉄道:営団地下鉄日比谷線との相互直通運転(昭和37年)、北千住〜竹ノ塚間の高架複々線化(昭和48年)
 小田急電鉄:営団地下鉄千代田線との相互直通運転(昭和53年)、喜多見〜和泉多摩川の複々線化(平成9年)
 京王電鉄:京王新線(笹塚〜新線新宿駅)開業(昭和53年)、都営地下鉄新宿線との相互直通運転(昭和55年)
 京成電鉄:都営地下鉄浅草線との相互直通運転(昭和35年)、都営地下鉄大門〜泉岳寺開通により、京成・都営地下鉄・京急の3社直通運転開始(昭和43年)など
また、当時の国鉄では、通勤対策として、いわゆる五方面作戦が展開され、以下が実現した。
 東海道線:東京〜小田原間線増、東海道線と横須賀線の分離運転、総武・横須賀線相互直通
 中央線:中野〜三鷹間線増、地下鉄東西線相互直通運転
 東北本線:赤羽〜大宮間線増、客貨分離運転、中電15両化
 常磐線:綾瀬〜取手間線増、中距離電車と緩行分離運転、地下鉄千代田線相互直通運転
 総武線:東京〜千葉間線増、快速緩行分離運転、横須賀線相互直通運転
その後、昭和47年(1972)には、新五方面作戦を策定し輸送力の強化を目指すが、国鉄の経営状況悪化、民営分割化によりそのままの計画では進められなかった面があるものの、埼京線、京葉線、湘南新宿ライン、つくばエクスプレスなどとして整備され現在に至っている。
なお、連続立体交差化の費用負担については、従来は個別協議によっていたが、昭和39年(1964)、当時の建設省と日本国有鉄道との間の覚書で、既設線の高架化については双方折半で負担することとなった。しかしその後、国鉄の財政事情の悪化が契機となって、昭和44年(1969)に運輸省と建設省との間で「都市における道路と鉄道との立体交差化に関する協定」(建運協定)が新たに締結され、以後、高架化に要する事業費は原因者である道路管理者が負担し、鉄道側は受益相当分を負担することとなった。 
なお、この協定は、平成16年(2004)4月に「都市における道路と鉄道の連続立体交差化に関する要綱および同細目要綱」(連立要綱)に名前を改め、平成19年(2007)8月には、連立要綱が改定され、連続立体交差化に関する地方公共団体と鉄道事業者との費用負担の見直しが行われた。

葛西沖の開発

昭和40年代の前半、東京都は都市改造計画として「広場と青空の東京構想」を策定しており、この構想の5つの先駆事業の一つとして、葛西沖の開発が重要なポイントとして位置づけられた。昭和45年(1970)4月、首都整備局に葛西沖開発担当が組織化され、都として葛西沖開発の計画を検討し推進することとなった。
しかし、昭和40年代は過去の高度成長がもたらした様々な歪みが表面化した時代でもあり、葛西沖地区においても、自然保護が注目され、葛西沖の三枚洲の現状保存、そこに集まる野鳥やハゼの保護を訴える声も大きくなりつつあった。昭和42年(1967)には「江戸前のハゼを守る会」が100万人の署名を集めて、ハゼの棲みかとしての葛西沖を守るよう訴えた。昭和45年(1970)には「新浜を守る会」が三枚洲の現状保存を求めて陳情し、「日本野鳥の会」も葛西の干潟保存と野鳥保護について陳情した。葛西沖が東京都の海岸線の中で自然のまま残された唯一の貴重な場所であり、周辺海域がハゼなどの貴重な産卵場で海鳥も特に多く生息しているということに、大勢の人が関心を向けたのである。
都が主体となって葛西沖開発を推進していく方針は決まったものの、開発計画の具体化に向けては、自然保護のほかにも、防潮堤の外側における100ha余の水没民有地の存在、国道357号線、首都高速湾岸線および国鉄京葉線構想との整合など、様々な課題を解決する必要があった。
こうした中、昭和45年(1970)12月23日、首都改造会議は「葛西沖開発要綱」を決定した。この要綱において、葛西沖開発は公有水面と水没民有地の埋立事業であり、造成後土地の交換分合を行う必要があるため、都が主体となって土地区画整理事業により施行されるということが決定された。
要綱では、埋立区域については、遠浅の海面の保護を考えて、以前の構想の半分程度の約330haに縮小された。道路網は基本的に当時の都市計画決定に従った配置となっているが、大きな特徴として、幅員30mの補助線(291号線)を緑道として計画したことが挙げられる。これは日本で初めての試みであった。
湾岸道路の南側には、85haの臨海公園が現在の姿とほぼ同じかたちで計画された。この大公園は、公園としての位置づけのほかに、地区を高潮から守る防潮堤としての性格、潮風から守る防風林としての性格、そして葛西沖のシンボルとしての性格を併せ持っている。
このように、昭和45年(1970)に策定された「葛西沖開発要綱」により、大きな一歩が踏み出された。

海上公園構想

昭和40年代に入り、高度経済成長が公害問題といった歪みを生み出していることに対して自然環境保全運動が急速な高まりをみせ、「死の海」とまでいわれた汚濁の進んだ東京の海を守り、その自然を回復しようという運動が東京の市民の間で活発になっていった。その中心となったのが「江戸前のハゼを守る会」であり、昭和42年(1967)から葛西三枚洲の干潟保全と海上公園設定に関する陳情が何回となく行われた。これを機として、昭和45(1970)年7月に当時の美濃部知事が東京港の汚染状況を視察した。
これらの動きを受け、都は早速、庁内に港湾局、首都整備局、建設局、企画審議室、財務局等の関係局からなるプロジェクトチームを編成した。この海上公園プロジェクトチームは、都民や学識経験者の意見を取り入れつつ集中的な検討を行い、わずか数か月で「海上公園構想」を取りまとめた(昭和45年12月決定)。
美濃部知事は、東京オリンピック後の都市環境問題に対し、都市に必要な生活基準をシビル・ミニマムとして示し、合わせて計画のローリングシステムを導入してマネジメントを強化するとともに、「東京に青い空を取り戻し、死んだ川や海を蘇らせたい」との思いから、昭和46年(1971)に「広場と青空の東京構想」(試案)を発表するが、この中で、きれいな空や水を象徴的に表現することのできる海上公園の建設を5つの先駆事業の一つに組み込んだ。
海上公園構想は、その意義について「江戸期も含め、埋立てが進む以前の海は、人びとが水浴や釣りなど余暇を楽しむことが普通であったが、埋立ての拡大や工場の進出により海は汚染され、臨海部は人びとが近づけない特殊な空間になった。自然としての海が果たすべき役割を怠ってきたことを反省し、海を市民の手に取り戻す必要がある」と説明し、その施策の基本的な考え方として以下の3つを提示している。
 ①海の都民への開放は、葛西沖から羽田沖までの海面全域にわたる一体的な構想のもとに進める。
 ・葛西沖など残された海岸や水面は、都民が海に親しみ、明日への活力を養えるよう計画的に保全する。
 ・埋立地には、都民が自然に親しみレジャーやスポーツを楽しむ場を積極的に確保する。
 ・港のエリアを都民にとって魅力的で親しみやすいきれいな海として整備する。
 ②海-海浜(港)-陸地と続く一連のレクリエーションスペースの中で、青少年や老人、婦人など都民の様々なレクリエーション活動が有意義に行われるよう、施設は効率的、重層的に組み合わせ、配置する。
 ③これらの具体化にあたっては、都民の参加を得てよりユニークなアイデアを投入するとともに、公園施設の管理運営には都民の知識、経験を積極的に活用する。
海上公園構想を受けて、昭和46年(1971)8月には、海上公園計画が策定された。その柱は①東京湾の水を浄化し、自然を回復して都民に提供する、②都民が創造する多様なレクリエーションの場として発展する公園とする、③既成市街地のオープンスペース計画と関連する公園とする、④具体化への提案など都民の参加を得るである。この計画では、葛西沖地区、夢の島地区、お台場地区等に地域の特性に適した機能を持つ公園を系統的に配置するもので、昭和47年度に着手し、昭和50年度には晴海ふ頭公園、お台場海浜公園ほか11公園、27haの供用を開始した。
その後も着々と整備が行われ、事業開始後10年目の昭和56年度は31公園、約110ha、20年後の平成3年度には35公園、約706haを開園した。特に昭和60年代からは、大井ふ頭中央海浜公園をはじめとして、葛西海浜公園、東京港野鳥公園、若洲海浜公園などの大規模な公園が次々と開園した。

多摩ニュータウンの開発

東京への人口集中が著しく、居住環境の良好な住宅地の大量供給の必要性が高まる中、大都市の中産階層への住宅供給を意図した大規模団地建設は昭和30年代から盛んに進められていた。
しかし、昭和30年代後半に入ると、住宅難はより一層深刻になり、道路・下水道等の都市基盤の整備を上回る速さで市街地が無計画に郊外へ拡大するスプロール現象が始まった。これは、東京の都市機能の低下にも繋がるものであった。
この頃、大阪府の千里丘陵などでは大規模なニュータウン建設が始められており、都においても、広大な未開発地域に都市施設を整備し、居住環境のよい住宅地を大量に供給する大規模団地開発の気運が高まった。当時、公的機関の行う住宅地供給の主な手法は、土地区画整理事業、一団地住宅経営方式、用地の任意買収方式による宅地造成事業の3つであった。この内、土地区画整理事業は宅地の大量供給という観点からみれば即効性に乏しく、一団地住宅経営方式は資金面と施行能力の面から開発規模に限度があった。また、用地の任意買収方式による宅地造成事業についても、用地の買収について収用権がないため、必要な面積や土地形状を確保することが困難であった。このため、計画的に大規模宅地開発を推進するための新しい手法が本格的に検討され始め、昭和38年(1963)7月、大都市周辺地域に大規模な宅地開発を計画的に行うことを目的として、新住宅市街地開発法が公布・施行された。
これを受けるかたちで、増加し続ける人口に対応し、首都圏の宅地不足とスプロール化に対応するため、都心から30〜40km離れ、都の西南部にあたる多摩丘陵地帯を開発し、都市機能を完備した新都市を建設する計画が構想された。
この構想に基づき、昭和39年(1964)には「南多摩新都市建設に関する基本方針」が決定され、翌40年には多摩ニュータウンの開発が都市計画決定される。計画区域は東西約14km、南北2〜4km、面積3,016ha。計画人口は当初30万人の大規模ニュータウン開発であった(その後昭和45年に41万人、56年に37万人に再修正)。事業にあたっては、昭和38年(1963)に公布・施行された新住宅市街地開発法に基づき、2,357haが事業計画決定された。
多摩ニュータウンのまちづくりは、都市基盤の整備、都市生活環境施設の整備、住宅の建設に大別できる。この内、都市基盤の整備は、新住宅市街地開発事業、土地区画整理事業、関連公共施設整備事業により行われた。
新住宅市街地開発事業に基づく多摩ニュータウン開発は、区域のほぼ中央部から進められ、その後西部および稲城地区へと事業が展開された。稲城地区については住宅・都市整備公団(当時)が施行している。
都が施行している西部地区(14、15、16、20、21住区)の基本計画は昭和44年度に策定した。その後、都は昭和49年(1974)10月に決定した「多摩ニュータウンにおける住宅の建設と地元市の行財政に関する要綱」を踏まえ、昭和52年(1977)11月、西部地区の特色を考慮した「多摩ニュータウン西部地区開発大綱」を策定した。その後、昭和53年度から本格的な造成工事を開始し、昭和58年(1983)3月には、14住区で入居が開始された。
多摩ニュータウン計画区域の内、土地の全面買収が困難な既存集落区域については、土地区画整理事業により整備が進められ、多摩、由木、小野路第一、第二、第三、相原・小山の6つの地区を都が施行した。
関連公共施設整備事業は、多摩ニュータウン全域に関連する主要な都市施設である幹線道路、河川、流域下水道をニュータウン周辺部も含めて整備するもので、都が宅地造成、住宅建設、土地区画整理事業の進捗に合わせて進めた。

江東防災拠点の整備

隅田川と荒川に囲まれた江東地区、いわゆる江東デルタ地区は、地盤が軟弱で標高が低いことから、昔から多くの災害に見舞われてきた。特に関東大震災の折には、この地区から旧東京市における死者・行方不明者の9割に相当する約85,000人の犠牲者を出した。震災後、復興事業により焼失地域を中心に大規模な土地区画整理事業が行われたが、高度成長期における大量の地下水の汲み上げによる地盤の沈下、木造密集住宅と工場の混在、化学薬品等危険物貯蔵庫の分布拡大などによって、相変わらず災害に弱い状況にあった。
都は、昭和40年度に国から委託を受けて、ゼロメートル市街地の防災拠点整備方式樹立調査を行った結果、関東大震災と同程度の地震を想定した場合、江東地区全体の死者数は約41万人にのぼると報告した。
これを受けて、都は昭和43年(1968)11月、「江東デルタ防災再開発基本計画等の作成作業について」を決定、翌44年11月、都市改造会議において、同地区の震災対策や住環境の改善を図るとともに、地域特性に配慮した経済基盤の強化を目指して、「江東再開発基本構想」を策定し発表した。
この計画は、江東デルタ地区の住民が30分程度で到達できる6か所(白鬚東・西地区、亀戸・大島・小松川地区、木場地区、中央地区、両国地区、四ツ木地区)で、面積約50〜100ha規模の拠点開発を行い、避難広場(平常時は都市公園)を確保し、その周辺建築物の不燃化を図り、併せて避難路や内部河川等の整備を行うなど、広域的なまちづくりを内容とするものであった。 
計画期間はおおむね10〜15年を目標とし、所要投資額は約5,000億円、うち、都施行の事業費は約3,500億円と推定された。
6拠点の内、白鬚東・白鬚西地区、亀戸・大島・小松川地区の2拠点については、都施行による市街地再開発事業を中心に整備を行った。他の4拠点(木場地区、中央地区、両国地区、四ツ木地区)については、地区の特性や住民の意向を考慮しながら、都市防災不燃化事業等により整備を図った。

土地の有効利用・高度利用を基本とした市街地再開発

この時期に法制化された、都市計画法や都市再開発法、新住宅市街地開発法、特定街区制度、総合設計制度といった新しい都市開発の法制は市街地内の限られた土地を高度利用し有効に活用することを可能にした。都は、低未利用の公有地の有効活用を図る観点から、これらの諸制度を活用して、自らが事業施行者になって、西大久保地区(昭和47年3月都市計画決定)、飯田橋地区(昭和47年7月都市計画決定)などの市街地開発事業を実施した。
都施行第1号である西大久保地区の市街地再開発事業は、補助74号線の整備によって交通渋滞を解消するとともに、老朽化した店舗、住宅を不燃・高層化して商業の近代化と居住環境の改善を図り、併せて戸山公園の造成を促進するなど、総合的なまちづくり事業として進められた。
昭和47年当時、駅前の商業地域にありながら低容積の官公署の施設が大部分を占めていた飯田橋地区では、環状二号線等の幹線道路を拡幅するとともに耐火高層建築物を建て、その低層部には店舗と駐車場、高層部には住宅と事務所が配置された。また、地下鉄東西線、有楽町線、南北線との相互連絡施設やJR飯田橋駅との連絡についても一体的に整備している。

Ⅴ期1981〜1999年(昭和56〜平成11年)一極集中から多心型構造への再編の時代

◆第五次首都圏基本計画(1999年策定:目標年次2015年)
首都圏の全体構造として東京中心部の過度の依存を緩和し、各地域の拠点的な都市(横浜、さいたま、千葉、立川など)を中心に諸機能がバランスよく配置された自立性の高い地域の形成とそれらの地域の相互の連携・交流によって機能を高めあう「分散型ネットワーク構造」の実現が目指された。

昭和57年(1982)
「東京都長期計画・マイタウン東京」の策定
昭和60年(1985)
「首都改造計画」(国土庁)の決定
昭和61年(1986)
「第四次首都圏基本計画」の決定
昭和61年(1986)
「第二次東京都長期計画」の策定
平成2年(1990)
「第三次東京都長期計画」の策定
平成4年(1992)
バブル崩壊
平成4年(1992)
都市計画法の一部改正(都市計画マスタープランの導入、用途地域の細分化)
平成7年(1995)
阪神・淡路大震災の発生
平成11年(1999)
「第五次首都圏基本計画」の決定

社会背景と都市の様相

昭和49年(1974)のオイルショックおよび昭和54年(1979)の第2次オイルショックで一時停滞した景気はその後回復をみせ、1980年代後半からは平成バブル景気と呼ばれる時代に突入し、土地投機が進み、全国的な地価高騰が起こった。
急激に進んだ地価の高騰は「地上げ」の横行など様々な歪みを生み出し、こうした土地に対する投機的な動きを抑制するため、平成元年(1989)に土地基本法が公布・施行され、翌2年3月には土地関連融資の抑制などの措置が実施された。また、平成4年(1992)、住居系用途地域における土地利用規制強化を目的とした都市計画法の改正が行われ、用途地域が従来の8種類から12種類に細分化されることとなった。
しかし、平成4年(1992)、高騰を続けていた地価が一転して大幅に下落を始めた。地価の急激な下落は、土地を担保として不動産部門に融資をしてきた金融機関の経営を揺るがし、大規模な倒産や金融機関の合併が続くこととなった。そして1990年代後半、都市内には地上げ途中の土地や担保割れして売るに売れない不動産など低未利用な土地が散見されるようになる。
こうした経済状況の変化を受け、平成4年(1992)3月の緊急経済対策(宮澤内閣)以降、公共投資は経済対策としての位置づけが強まっていった。一方で、公共投資に代わり規制緩和による経済浮揚策も検討されるようになる。戦後初の非自民党政権である細川内閣は、平成5年(1993)9月、緊急経済対策として規制緩和を大きく取り上げ、翌6年には民間都市開発の推進に関する特別措置法および都市開発資金の貸付に関する法律を改正、また平成11年(1999)7月には、公共部門における民間資本の活用を目指して民間資本等の活用による公共施設等整備等の促進に関する法律(PFI法)が公布される。
東京の都市づくりでは、昭和60年(1985)に「首都改造計画」(国土庁)、翌61年に「第四次首都圏基本計画」が発表され、将来構想として多極多圏域型の地域構造が示された。
環境面では、国に先駆け、昭和55年(1980)に東京都環境影響評価条例を公布し、環境に著しい影響を及ぼすおそれのある事業の実施に際し、その環境影響について事前に十分調査し、予測、評価を行うことを義務づけた。また隅田川では、高潮対策事業として行われた、いわゆる「カミソリ堤防」の整備により人と水辺が分断されたことを受け、昭和55年より親水性にも配慮した緩傾斜型堤防整備事業に着手した。
この時代、上水道は昭和63年(1988)に給水普及率100%、下水道は平成6年(1994)に区部概成100%を達成する。そして普及後の新たな展開として、上水道では金町浄水場における高度浄水処理施設整備など、より一層安全でおいしい水を供給するための取組み、下水道では平成4年(1992)策定の「第二世代下水道マスタープラン」に基づき、下水道施設の再構築や下水熱を利用した地域冷暖房事業などが始まる。
また、昭和62年(1987)4月に日本国有鉄道が民営化され、多くの国鉄跡地が売却されることとなる。国鉄跡地は交通体系の中で重要な地域に分布していることが多く、地域整備にも大きな影響を与えた。都内でも多くの国鉄跡地が分布していたが、これらはその後、汐留駅、隅田川駅、秋葉原駅、品川駅(第一運転所)などで土地区画整理事業を活用した跡地開発が行われるなど、東京の都市づくりにも大きな影響を及ぼした。
この時期、都財政は法人税の税収が膨らんで好転したこともあり、臨海副都心開発や第三セクター鉄道等の交通インフラ整備、江戸東京博物館や東京国際フォーラム等の大型プロジェクトにより、世界都市としての基盤整備を進めた。
一方で、平成7年(1995)1月に阪神・淡路大震災が発生し、木造住宅密集市街地の危険性が再認識され、地域防災計画の緊急見直し、また「防災都市づくり推進計画」の策定が行われたのもこの時代である。

都市づくりの構想・計画とそれを支える制度

多心型の都市構造への転換を目標とした都市づくり

《首都改造計画・第四次首都圏基本計画》
昭和60年(1985)5月に、国土庁が首都改造計画を発表する。この計画は、昭和52年(1977)に策定された第三次全国総合開発計画に論拠を置いており、計画の基本方針として「東京都心部への一極依存構造に代わって、分化を基調とした複数の核と圏域を有する多核多圏域型の地域構造を形成し、これを基調として、東京大都市圏を連合都市圏として再構築すること」を謳った。
これを受けるかたちで、昭和61年(1986)6月には「第四次首都圏基本計画」が発表される。同計画では、東京圏における住宅問題、職住遠隔化等の大都市問題の解決を図るため、東京都区部以外の地域で相当程度広範囲の地域の中心となるべき業務核都市整備の考え方が示され、さらに昭和63年(1988)6月に施行された多極分散型国土形成促進法において業務核都市が制度化された。第四次首都圏基本計画では、八王子・立川、青梅を含む11都市圏が指定された。
《東京都長期計画に示された都市像》
都の計画においても、この時代、集中抑制、分散の方向性が徐々に強くなってくる。
鈴木俊一知事のもと昭和57年(1982)に策定した「東京都長期計画 マイタウン東京-21世紀を目指して」では、多心型の都市構造を提示し、それまでの新宿、池袋、渋谷の副都心に加え、上野・浅草地区、錦糸町地区、大崎地区の副都心整備、および、多摩地域での「心」となる拠点(以下、多摩の「心」)として八王子、立川、町田の3地区が位置づけられた。
昭和61年(1986)に策定した「第二次東京都長期計画 マイタウン東京-21世紀への新たな展開」ではさらに、東京港13号地を中心とする臨海副都心を提示するとともに、多摩の「心」として青梅と多摩ニュータウンセンターが加わるなど、東京都の都市づくりにおいても、多心型の都市構造を目指すことを基本的な方向として位置づけた。
3期目に入った鈴木都政では、地価高騰による住宅取得の困難化、交通混雑の激化など依然として続く「東京一極集中」と呼ばれる東京への諸機能の一点集中による様々な問題への対応が重要な課題となった。平成元年(1989)9月の都議会で鈴木知事は、このような地価高騰と住宅・交通問題の深刻化や高齢化の急速な進行など、第二次長期計画策定後の状況の変化に対応し、目前に迫った21世紀に向けて新たな目標設定が必要であるとし、第二次長期計画の改定を行うことを明らかにした。そして、同年11月に再度、東京都長期計画懇談会を設置し、平成2年(1990)11月、「第三次東京都長期計画 マイタウン東京-21世紀をひらく」を策定した。
第三次長期計画では、「都心部への業務機能の過度の集中を抑制するため、新宿、渋谷等の副都心と八王子、立川等の多摩の「心」を育成し、これらの拠点へ業務機能などを誘導・分散することを目指した多心型都市構造の形成を基本理念に都市政策を推進している」と謳っている。

多摩の「心」育成・整備計画

このような東京における副都心の育成・整備政策の一環として、多摩地域についても、東京の都市構造を多心型へ転換するために、業務機能等の集積や自立都市圏の形成などが強く求められるようになった。
しかし多摩地域は、これまで就業の場や消費、文化などの高次の生活サービスを区部に強く依存するとともに、市街地も都心部から放射状に伸びる鉄道に沿って形成されてきたため、各沿線地域相互の連携が弱いという課題があった。このため都は、これらの状況を克服し多摩地域の自立都市圏としての育成・整備を図るため、平成7年(1995)3月、多摩の「心」を育成整備するガイドラインとして「多摩の「心」育成・整備指針」を策定した。さらに、指針で示した方針を具体化し、八王子、立川、青梅、町田、多摩ニュータウンの各「心」におけるまちづくりや機能導入の方向を示すとともに、今後に個別の事業計画、実施計画等を策定していくための基本となる「多摩の「心」育成・整備計画」を平成10年(1998)4月に策定した。当該計画策定以降、八王子や立川駅前の再開発事業、首都圏中央連絡自動車道と中央自動車道との接続、多摩南北道路の一つである八王子村山線の全線開通など整備が進捗したほか、核都市において、業務機能を担う事務所の床面積が過去10年間で倍増するなど着実に成果を上げてきた。
さらに都では、平成21年(2009)8月に社会経済情勢や都市づくりを取り巻く環境の変化等を踏まえて「多摩の「心」育成・整備計画」の見直しを行い、従来の八王子、立川、多摩ニュータウン、青梅、町田の5つの核都市に加え、7地区の生活拠点を計画に位置づけ、新たに「多摩の拠点整備基本計画」を策定している。

社会状況の変化に対応した用途地域等の見直し

この時期、社会状況の変化に対応するかたちで用途地域の一斉見直しを複数回実施している。
《昭和56年(1981):第1回一斉見直し-都市計画事業の進捗状況への対応》
昭和51年(1976)、建築基準法が改正された。この改正では、日影による中高層建築物の高さ制限を行う日影規制創設や、昭和45年(1970)の改正で導入された容積率規制について、第二種住居専用地域の容積率メニューから400%を外し、100%と150%を追加するとともに、住居系用途地域について、前面道路幅員に基づく容積率規制の強化等が行われた。
これらの関連制度の改正および都市計画事業等の進捗状況等を踏まえ、都全域にわたる用途地域等の見直しを実施した。
《平成元年(1989):第2回一斉見直し-居住機能の保全と回復》
昭和50年代後半から始まったバブル経済により、東京は異常な地価高騰を招いた。バブルに伴う地価高騰は、住宅に比べて地価負担力が高く立地圧力が強い事務所が住居系の土地利用地域に無秩序に進出するという現象を引き起こした。住居系の土地利用を保護するとともに、人口空洞化が進む都心地域等における住宅供給を確保するため、きめ細かい用途規制が社会的に強く要請されるようになった。
これらの社会経済情勢の変化等に対応して土地利用を再検討することとし、区域区分および地域地区等の一斉見直しを実施した。この結果、区域区分の変更を伴わない都市計画区域(16都市計画区域、23区21市)については、所定の手続きを経て、平成元年(1989)10月、告示・施行した。地域地区についても同時に再検討を行い、区域区分の変更を伴わない都市計画区域を第一次変更分(23区2市)として同時に告示・施行した。
区域区分の変更を伴う都市計画区域(6都市計画区域、8市町村)についても、平成2年(1990)3月、所定の手続きを経て告示・施行した。地域地区についても、区域区分の変更を伴う都市計画区域について、第2次変更分(5市町)として同時に告示・施行した。
《平成8年(1996):第3回一斉見直し-法改正による住居系用途地域の細分化》
平成4年(1992)の都市計画法および建築基準法の一部改正により、用途地域の種別が従来の8種から12種類に細分化、拡充された。上述した、バブル期に発生した土地利用の混乱に対応するための国レベルでの対応といえる。この改正では、適切に住環境の保護を図り住宅の確保に資するとともに、併せて新たな市街地形態にも対応し、よりきめ細かな用途規制を行いうるよう、住居系用途地域の細分化が行われた。
具体的には、従来の「第一種住居専用地域」が「第一種低層住居専用地域」と「第二種低層住居専用地域」の2つに、また「第二種住居専用地域」も「第一種中高層住居専用地域」と「第二種中高層住居専用地域」の2つに分けられた。さらに、「住居地域」は「第一種住居地域」「第二種住居地域」および「準住居地域」の3つに分けられた。
用途地域の細分化と合わせて、個別の用途規制の見直しも行われ、騒音の発生等による住環境の悪化を防止するため、従来の用途種別になかったカラオケボックスを新たに設け、すべての住居専用地域と第一種住居地域での建築を禁止した。
また、この時の都市計画法の改正では、特別用途地区に「中高層階住居専用地区」「商業専用地区」の2つが追加されるとともに、平成5年(1993)の施行令改正により「研究開発地区」が追加され、特別用途地区の種類が11種類となった。
平成8年の見直し作業は、上述のように、用途地域が8種から12種に細分化、特別用途地域の拡充等が行われたことに対する指定替えとしての性格が強いものであり、用途地域の内容の見直し的な意味は弱かった。

地区計画制度の活用

昭和55年(1980)5月、都市計画法および建築基準法の一部が改正され、新たなまちづくりの手法として地区計画制度が創設され、翌56年4月から施行された。
従来、日本のまちづくりは、都市計画法と建築基準法を二本の柱として運用し、その整備を図ってきたが、都市計画法は都市全体の広域的な土地利用あるいは都市の根幹的な都市施設、公共施設等の計画を中心としているため、街区レベル、地区レベルで見ると、きめの細かさに欠ける面があった。一方、建築基準法は個々の敷地に対する用途、建ぺい率、容積等の規制であるため、それぞれがこれらの規制に適合していても、それが集合・集積することによって発生する市街地の環境悪化には十分に対応できない面があった。
具体的にはバラ建ち的スプロール、建築物の用途の混在、中高層建築物と低層建築物の混在、木造密集地区の存在、細街路の未整備、ミニ開発の増加などであり、これらに対応するために地区計画制度が創設された。別の見方をするならば、上記したようなまちづくり上の課題が、この時期顕在化しており、それらに対応することが、まちづくりに強く求められていたということである。
制度創設後、都内では、良好かつ高水準な住環境の形成を目指した高幡鹿島台ガーデン54地区、不燃化等による地区の防災機能の強化等を目指した蚕糸試験場跡地周辺地区など、様々な地区で地区計画が導入されている。
地区計画制度は、その後さらなる制度の充実が重ねられ、現在に至るまで、まちづくりの基本的な手法として定着し、地区計画を組み込んだ大規模都市施設整備型の市街地整備が盛んに行われるようになってきている。

環境影響評価条例

都では環境問題について、全国の自治体で初となる東京都工場公害防止条例(昭和24年8月公布)、東京都公害防止条例(昭和44年7月公布)などを通じて段階的に対応を行ってきた。
しかし、この時代、環境問題はますます複雑化・多様化し、従来の個別対策に加えて、より総合的かつ計画的な対応が求められるようになった。また、生活排水による河川の汚濁や近隣騒音などの都市・生活型公害は、従来型の公害とは異なり、技術的な対応だけでなく都市構造や都市のあり方、都民の日常生活や生活様式にも密接に関係しており、新たな対応が求められるようになった。
また、環境の悪化を防止し、より良好な環境を保持するためには、環境に著しい影響を及ぼすおそれのある事業の実施に際し、その環境影響について事前に十分調査し、予測、評価を行う必要があることが強く認識され始めた。
これらに対応するため都は、昭和52年(1977)4月、「東京都における環境アセスメントを考える委員会」を発足させ、制度化にあたっての基本的な考え方についての検討を進めた。この答申を踏まえ、東京都環境影響評価に関する条例(案)が議会に提出されたが、約1年間の継続審議の間に多くの問題点が指摘され、4度継続審議となった後、昭和54年(1979)9月、議決を経て撤回された。そのため都は、同年10月に改めて、東京都環境アセスメント制度検討委員会を設け、旧条例案の問題点を中心に制度のあり方について再検討を行った。この答申をもとに、翌55年(1980)9月、都議会に東京都環境影響評価条例(案)が提出され、同年10月に公布された。
東京都環境影響評価条例の特徴は、予測評価の項目として、大気汚染や水質汚濁などの典型7公害に加えて、日照阻害などの公害や動植物、歴史的文化財や景観などを幅広く対象としていることにある。これらの項目を対象に26種類の対象事業を指定しているが、この中には、国の要綱(国では、昭和59年に環境影響評価の実施について閣議決定が行われ、各省が要綱により部分的に実施することとなっていた)の対象とならない、住宅団地、高層建築物、自動車駐車場、モノレールの建設なども含まれている。加えて、住民参加について、手続きの各段階に応じて参加の機会を保証することにより、良好なまちづくりを住民とともに進めることとしたこと、事業者の責任を明確にし、調査等は事業者の責任で行うこととしたこと、審査の公平性を担保するため、学識経験者からなる審議会の意見を聴くこととしたことなどが特徴的な事項である。
同条例を適用して整備した多摩南北道路の調布保谷線では、通過車両による騒音・振動・排出ガスの影響を距離減衰の効果により軽減するなど、沿道の生活環境を保全するために環境施設帯の追加等を行っている。また新たな試みとして、住民参加型の環境施設帯整備検討協議会を開催し、地域住民の方々から広く意見を聞き、より地域の特性にあった、環境に配慮した道づくりに取組んでいる。
環境影響評価は、その後、総合環境アセスメント制度検討委員会(平成5年2月設置)からの「東京都における新たな環境配慮制度のあり方」の報告(平成9年4月)を受け、総合環境アセスメント制度の導入について検討を進めた。これらについては、総合環境アセスメント制度の試行などを踏まえ、平成14年(2002)4月に東京都環境影響評価審議会から「計画段階アセスメント制度の導入について」の答申が出され、これを受けるかたちで同年7月に改定がなされ、計画段階環境アセスメント制度が導入された。これにより、計画段階アセスメントと事業段階アセスメントが確立され、住民等との協働による計画づくりの道が開かれ、より充実した環境影響評価となっている。

防災都市づくり推進計画

都では、江東地域における拠点的な防災再開発事業をはじめとする各種事業の積み重ねにより、市街地の防災性の強化を図ってきたが、個別の事業がそれぞれ別々に展開される場合や、整備目標や達成プログラムが明確に示されていない場合もあるなど、計画的、体系的な課題解決が進みにくい状況にあった。このような反省、および平成7年(1995)1月に発生した阪神・淡路大震災の教訓を踏まえ、都では地域防災計画の緊急見直しを行うとともに、平成9年(1997)3月、「防災都市づくり推進計画」を策定した。
「防災都市づくり推進計画」は、23区および多摩8市(武蔵野、三鷹、府中、調布、小金井、国分寺、保谷、狛江)の内、木造住宅密集市街地およびその周辺地域を主な対象として策定されたものであり、基本計画および整備計画から構成されている。
基本計画は、防災都市づくりを推進するための基本的な枠組みを示し、対象となる市街地を地震に対する危険度等により防災生活圏を単位としてゾーニングするとともに、危険度の高い地域の中から防災上の整備効果を評価し、緊急に整備すべき地区として、整備対象地域と重点整備地域を抽出している。
整備計画は、木造住宅密集地域整備プログラム、重点整備地域の整備方針および重点地区の整備から構成されている。整備計画では、不燃領域率40%以上を、市街地の延焼が緩やかになり、市街地大火への拡大の抑制、避難時間の確保および消火活動等の有効な展開が図られる災害時の基礎的安全性が確保された水準とする考え方に基づき、整備目標の設定を行っている。
「防災都市づくり推進計画」は、地域危険度測定調査の最新の調査結果や首都直下地震の切迫性、東日本大震災の発生等を踏まえ、随時改定を行っている。

東京都緑のマスタープラン

都は昭和47年(1972)に東京における自然の保護と回復に関する条例を公布し、条例による地域性緑地として「保全地域」を創設した。同地域では権利制限に対する補償措置としての買取り制度を導入し、これ以降、緑の保全・創出に関する動きがますます活発化をみせるようになる。また昭和50年代はじめには、法的な公園類型とは別に、カルチャーパーク、タウンスクエア、クラフトパークなど公園に関する多くの概念が生まれるなど、公園緑地に関する事業が多様化し、その整備等に関するマスタープランの存在が必要になってきた。このような時代背景のもと、昭和52年(1977)、都市計画中央審議会が「都市において緑とオープンスペースを確保する方策としての緑のマスタープランについての答申」を出し、建設省はそれをもとに、都道府県に「緑のマスタープラン策定の推進について」を通達した。
都は同通達を受けて検討に着手し、昭和56年(1981)に「東京都緑のマスタープラン」を策定した。このマスタープランでは、公園緑地の配置方針として、①点・線・面的緑地からなる緑地のネットワーク化により都市の骨格の形成を図る、②広域公園として、「臨海部」「台地部」「丘陵部」に核となる大規模な緑地を配置する、③「環境保全」「防災」「レクリエーション」の各系統が効果的に機能する配置を行うといった考え方を示すとともに、西暦2000年時点での緑地確保の目標として、区部約10,700ha(18%)、多摩部約33,000ha(40%)、計約43,700ha(区域の30%相当)を設定した。

新しい鉄道路線整備における第三セクターの活用

1980年代のバブル経済により、鉄道建設コストは高騰する一方となり、都内鉄道網の整備に伴う旅客需要の相対的低下は、鉄道事業者の新線建設意欲の停滞を招いた。
加えて、昭和62年(1987)に国鉄改革による分割民営化がなされ、JRによる新線建設は当分見送られることとなった。
一方、この時期の東京の公共交通網をみると、区部環状部、区部北東部および多摩の南北方向のような公共交通不便地域の偏在、さらに臨海副都心開発を誘導する鉄道整備、一都三県に跨る常磐新線など、強い鉄道新線への需要があり、大きな行政課題ともなっていた。
このような背景のもと、都は都税収入の伸びが好調な時期をとらえ、都が最大株主となる第三セクターを設立し、これらの新線建設に主導的に取組むこととした。
具体的には、都庁舎の新宿移転をきっかけに昭和63年(1988)、区部環状部の都営地下鉄12号線の建設を行わせるために、東京都地下鉄建設(株)を設立、多様な資金調達を行わせるとともに、資本金2/3を出資し事業を主導することとした。
また、前後して昭和61年(1986)に多摩都市モノレール(株)、昭和63年(1988)に東京臨海新交通(株)、平成3年(1991)に東京臨海高速鉄道(株)、首都圏新都市鉄道(株)がそれぞれ設立され、多摩都市モノレール、ゆりかもめ、りんかい線、つくばエクスプレス等の建設、さらには東京都地下鉄建設(株)が日暮里・舎人ライナーの建設をそれぞれ担当した。
この第三セクター方式は、東京都側が主導的立場をとりつつも、民間資金や借入金等の幅広い資金調達、多様な人材確保、道路管理者等との協議調整の効率化など多くの利点が挙げられ、これらにより大きな政策課題となっていた鉄道新線の建設が可能となった。

代表的な都市づくり

多心型都市構造に対応した臨海副都心開発

臨海副都心開発は、都心から直線距離にして約6kmに位置する東京港中央部の埋立地に、開発面積448ha、居住人口約6万人、就業人口約11万人の都市を建設するものである。東京の都市構造を一点集中型から多心型に転換させるにあたって、この地域にその一翼を担わせるとともに、国際化・情報化という時代の要請にも応えつつ、ここに多様な機能を備えた理想の未来都市を創造することが目指された。都は、昭和54年(1979)8月、マイタウン東京構想の具体的検討とその推進を図るために、マイタウン構想懇談会を設置し、翌55年12月に知事へ報告書を提出した。報告書では「区部においては、特に業務機能の一点集中型を多心型構造へと転換」するために、都内6地区の副都心育成とともに「13号埋立地に商業・文化機能を配置して、東南部の心とする」と述べられ、13号埋立地(現在の台場・青海地区)の位置づけを明らかにした。一方で、昭和54年(1979)11月から埋立地開発の推進方策について検討を続けていた東京都港湾審議会は、昭和56年(1981)4月の答申において、13号地その1地区には、大規模で魅力的な国際交流のためのゾーンと文化交流のためのゾーンを置き、国際会議場と国際展示場を国際交流ゾーンの中心とすることを提言した。これらの考え方は、翌57年12月に策定された東京都長期計画に盛り込まれ、臨海部各地区の活用と並んで「13号地その1地区では、東京港連絡橋などによって都心との交通の便を確保し、国際交流施設、文化施設などの建設を進め、隣接する海上公園と合わせて、東京港全体のシンボルゾーンとなるよう整備する」とされ、13号埋立地の活用方法についての具体的な輪郭が示された。臨海部副都心の開発にあたっては、国の多くの省庁(内閣官房、国土庁、通産省、運輸省、郵政省、建設省)が関係するため、東京臨海部の開発に関し、国と都との間で調整を要する事項について協議し、基本的な合意形成を図るため、昭和61年(1986)11月に東京臨海部開発推進協議会が設置された。同協議会は、翌62年1月、国の各省庁と都の役割分担について協議・決定し、都が基本構想を策定することとなった。その後、同協議会では、同年10月に「東京臨海部における地域開発及び広域根幹施設の整備等に関する基本方針(中間のまとめ)」、昭和63年(1988)3月には「同方針(最終とりまとめ)」を決定し、東京臨海部副都心開発や豊洲・晴海開発において、開発者負担の考え方を導入することとした。昭和62年(1987)6月、都は、「臨海部副都心開発基本計画」の指針とするため「臨海部副都心開発基本構想」を策定、翌63年3月には、基本構想を受けた「臨海部副都心開発基本計画」を策定、さらに平成元年(1989)4月には、「臨海副都心開発事業化計画」を策定し、土地造成、広域的根幹施設(道路、鉄道等)・地域内交通施設・供給処理施設(共同溝、上下水道、ごみ処理、地域冷暖房、電気・ガス)等の都市基盤整備のほか、国際交流拠点(東京テレポート、東京国際コンベンションパーク等)の整備、都市環境整備計画、地区別実施計画などを定めた。これにより、臨海副都心(東京テレポートタウン)の建設は、総開発事業費4兆1,400億円の一大プロジェクトとして本格的に始動することとなった。臨海副都心地区では、平成8年(1996)3月から「世界都市博覧会-東京フロンティア-(以降、都市博)」の開催が予定されていた。都市博は東京テレポートタウンの建設促進、東京の新しい都市づくりの促進、都市づくりの技術・アイディア等の発信などを目的とし、第3次東京都長期計画にも位置づけられた。臨海副都心および豊洲・晴海地区の開発は、その面積が広大であり、市街地の熟成度や地権者の開発意向がそれぞれ異なる区域で構成されている。そのため開発にあたっては、地権者の開発意向を早期に満たす一方で、長期的な土地利用にも柔軟に対応することが求められた。そこで、まずはじめに土地区画整理事業により主要幹線道路の整備を行い、区画街路・公園等の地区内施設については、それぞれの地区の実情に応じて二次開発で整備することとされた。この手法は土地区画整理事業による一次開発後の街並みが、幹線道路で囲まれた大街区のかたちで整備されるため、「大街区方式土地区画整理事業」と呼ばれている。平成5年(1993)7月、この考えに基づき、次の都市計画が決定・告示された。
 ○都市計画道路: 都市高速道路晴海線、放射34号線(晴海通り)、環状二号線、環状三号線、補助314号線(月島・晴海連絡道路)、補助315号線(豊洲・有明連絡道路)
 ○土地区画整理事業: 豊洲・晴海地区の一部および有明北地区の約262haの区域(臨海部開発土地区画整理事業)
 ○再開発地区計画:豊洲・晴海地区および有明北地区
一方、平成7年(1995)4月9日に行われた第13回東京都知事選挙の結果、都市博の中止を公約に掲げた青島幸男知事が誕生し、同年5月31日に都市博の中止が最終決定されたが、臨海副都心の開発自体は継続されることとなった。平成7年の第1回都議会定例会において「始動期後の開発については総合的に見直しを行うこと」との付帯決議がなされ、これを受けて同年9月に知事の諮問機関として臨海副都心開発懇談会が設置され、総合的見直しについての検討がなされた。平成8年(1996)4月、臨海副都心開発懇談会の最終報告が知事に提出され、都はこの懇談会の報告、都議会での議論や提案ならびに都民から寄せられた意見等を勘案したうえで、同年7月、今後の開発の基本的方向性を示した「臨海副都心開発の基本方針」を決定した。基本方針では、臨海副都心は、職と住の均衡のとれた東京第7番目の副都心として、また、明日の東京の活力を担い、都民生活を支えるまちとして、生活者の視点に立った東京の都市づくり、すなわち「生活都市東京」の創造に積極的な役割を果たしていかなければならないとし、これまでの成果をいかし、時代の変化に的確に対応しながら都民の理解と協力を得て、責任を持って着実に開発を進めていくこととした。

大規模未利用地の開発

この時期、旧国鉄汐留貨物駅跡や立川基地跡地等において、都が主導するかたちで大規模未利用地の開発が進められた。
《汐留土地区画整理事業》
汐留地区は、東京都心の南部に位置し、JR新橋駅に近接する旧国鉄汐留貨物駅跡からJR浜松町駅付近まで広がる施行面積約30.7haの地区である。地区内には鉄道発祥の地として名高い旧新橋停車場跡があり、地区の東側には広大な浜離宮庭園が隣接するなど、都心にあって歴史的景観と自然が残る数少ない地域の一つである。
また、当該地区は、業務および商業が高度に発展した都心部と、新たな副都心として発展が期待されている臨海部との中間に位置し、都心部と臨海部を結ぶ重要な交通結節点でもある。
昭和61年(1986)11月、汐留駅の機能の廃止に伴い、国土、運輸、建設の3省庁が汐留地区に関する開発整備に対する調査検討を実施。これを踏まえ、平成2年(1990)3月、汐留地区の開発に関する基本方針を設定、翌3年2月、都施行の土地区画整理を実施することとし、補助313号線等の関連道路の都市計画決定などを経て、平成4年(1992)8月に土地区画整理事業、再開発地区計画の都市計画決定がなされた。平成7年(1995)3月には事業計画決定し、その後、数度の事業計画変更が行われ、また、再開発地区整備計画についても、街区ごとに数度の都市計画変更を経て、平成27年(2015)に換地処分の公告が行われた。
《立川基地跡地地区》
立川基地跡地の開発は、昭和52年(1977)11月に全面返還された立川基地跡地約460haの開発計画である。
昭和51年(1976)に国の国有財産中央審議会から示された「米軍提供財産の返還後の利用に関する基本方針」に基づき、返還直後に「立川飛行場返還国有地の処理の大綱について」が示され、地元地方公共団体等利用地区が219ha、国・政府関係機関等利用地区が130ha、留保地が111haに区分され、地元利用地区には国営昭和記念公園が、国等利用地区には広域防災基地等が設けられた。
国営昭和記念公園は、昭和天皇御在位五十年記念事業の一環として、国民が自然的環境の中で健全な心身を育み、英知を養う場として建設することが閣議決定され、「緑の回復と人間性の向上」をテーマに、昭和53年度より建設省により整備が進められ、昭和58年(1983)10月26日、約70haで開園した。その後、レインボープールやこどもの森、日本庭園、盆栽苑等次々と施設が整備され、平成17年(2005)11月には、みどりの文化ゾーンが供用され、同時に昭和天皇記念館が開館した。
公園はレクリエーション施設としての面もあるが、大規模な災害発生時には避難場所としての機能を果たすように設計されており、園路はスムーズに避難を行うために幅が広くとられており、芝生が広がる「みんなの原っぱ」は避難所として、立川口駐車場・みどりの文化ゾーンは救援隊のベースキャンプ・救護所・物資集積所などとして活用でき、立川市と昭島市の広域避難場所の一つに指定されている。また、防災関係機関が所在する立川広域防災基地が公園に隣接している。

鉄道新線の計画

都市高速鉄道については、昭和43年(1968)の都市交通審議会答申第10号、ならびに昭和47年(1972)の答申第15号に基づき、昭和50年代半ばまでに、都市高速鉄道の1号線〜6号線および9号線の都内区間がほぼ完成し、8号線、10号線、11号線の一部が営業を開始していた。
しかし、昭和50年代後半から60年代はじめにかけては異常なまでの地価高騰によって職住遠隔化が進み、新幹線通勤なる現象まで生まれるに至り、広域的かつ長期的な展望に立った新たな交通計画が求められるようになった。
このような観点から、昭和57年(1982)には、運輸大臣から運輸政策審議会に長期的な計画策定の諮問がなされ、昭和60年(1985)7月、運輸政策審議会答申第7号「東京圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画について」が答申された。
答申は、平成12年(2000)の東京圏の人口が昭和55年の3,000万人からさらに400万人増加し、その人口分布は千葉県、埼玉県、茨城県南部に一層外延化すると予測した。また、新宿、池袋、渋谷等の副都心や横浜、川崎等の一層の成長と立川、八王子、大宮、浦和、千葉等の業務核都市育成により業務地が分散化して東京区部への人口流入は鈍化し、平成12年には約80万人の増加にとどまるものと見込んだ。また、都市交通審議会答申第15号の平成12年における目標混雑率150%を180%に改め、混雑率がおおむね200%を超える路線について、新線建設、複々線化等を行う計画とした。
主要な答申路線として、常磐線方向の混雑緩和のための常磐新線、11号線の松戸方向への延伸、6号線・7号線の目黒駅での目蒲線への直通運転、羽田空港沖合展開に伴う東京モノレール羽田線の延伸および京浜急行空港線の延伸等が新たに設定された。この答申が都市交通審議会答申と異なる点は、国鉄線の改良や新交通システム等についても盛り込まれたことであり、中央線三鷹〜立川間の複々線・立体化、山の手貨物線の大崎までの旅客線化、武蔵野南線の川崎までの旅客線化等が計画に加えられた。新交通システムについては、輸送需要の動向等を勘案のうえ、日暮里〜舎人間等に導入することとされた。

多摩都市モノレール全線開業

多摩都市モノレールは、多摩地域南北方向の公共交通網の充実、各都市相互の連携強化などを整備目的とし、昭和56年(1981)10月に構想路線として93kmが発表され、翌57年12月に東京都長期計画において需要の見込まれる16kmの整備路線が位置づけられた。平成元年(1989)1月には、多摩センター〜上北台間が都市計画決定された。
事業は道路インフラ制度に基づき、インフラ部とモノレール関連道路整備を東京都、インフラ外部整備と運営を昭和61年(1986)4月に設立された多摩都市モノレール(株)が担った。
多摩都市モノレールは、平成10年(1998)11月の立川北〜上北台間約5.4kmに続き、平成12年(2000)1月には多摩センター〜立川北間約10.6kmも開通し、整備路線の全区間が開業した。この全線開業により、多摩地域の交通利便性が一層向上したのみならず、都市間の人の交流や地域の発展にも大きく寄与することとなった。

都市型水害対策・総合治水対策

この時期、下水道の整備や河川改修の努力の結果、都民を苦しめ続けてきた「氾濫型水害」の危険度は大きく軽減した。しかし高度に発展した都市は、その内部に新しいタイプの水害の危険性を抱え持つことになった。建築物が密集し、道路も舗装面で覆いつくされ保水機能を失った都市は、短時間に雨水が河川や下水道に流れ込み、それが浸水被害を引き起こすという危険にさらされるようになった。
昭和56年(1981)7月22日の集中豪雨による被害は、こうした都市の構造そのものが原因となる「都市型水害」の典型といえるものであった。この豪雨による被害は床上・床下浸水合わせて14,000戸に及び、中でも上述したような雨水流出状況の変化が著しい東京の中心部に被害が集中した。同時にこれら被害集中地域の多くは、戦前あるいは戦後の比較的早い時期に下水道が整備された地域であり、近年の雨水流出量の増大に対し、既設の下水道が能力不足をきたしたことが被害を大きくした一因となった。
このため都は新しい都市形態に対応した雨水排除計画の見直し作業を進め、昭和57年(1982)1月に「雨水再整備計画」を策定する。計画は東京の中心部約19,200haを対象に、雨水流出係数(降雨量の内、下水管きょに流れ込む比率)の改定、管きょの増強、ポンプ排水区域の拡大等を行うという内容であった。以後この計画に基づいて、雨水対策の強化が順次進められていくことになる。さらに昭和57年からは、浸水被害常習地域の早期解消を図るため、神田川上流・下流地域など7地域を対象に「緊急雨水対策整備事業」(事業期間57〜60年度、事業費420億円)が実施された。
しかし雨水再整備計画の対象地域は区部の約1/3にも及び、しかも東京の中心地域であるため、必要な用地の確保難など、工事の実施は様々な制約を受けた。こうした中で、都市型水害に効率的に対処していくためには、河川や下水道の整備に加え、新しい雨水排除システムの検討を含む総合的な治水対策に取り組んでいくことが必要とされた。このため昭和56年(1981)11月、下水道局をはじめ関係各局よりなる総合治水対策連絡会が設置され、新しい治水対策の検討を進めることになった。

隅田川テラスの整備

隅田川では、高潮対策事業として、いわゆる「カミソリ堤防」の整備が昭和50年(1975)までに完了したが、堤防により人と水辺が分断される結果となった。これを受けて都は、昭和55年(1980)から安全性に加えて、人びとが水辺に近づける親水性にも配慮した緩傾斜型堤防整備事業に着手した。その結果、白鬚地区を皮切りに、舗装、植栽などの修景工事により遊歩道としての機能を備えた親水テラスが整備され、都内では貴重なオープンスペースとなった。なお、親水テラスは、治水の観点からは堤防の根固めの役割を果たし、耐震性能の向上に貢献している。隅田川テラスは、隅田川両岸に沿って整備された親水テラスの総称であり、全長23.5kmの内、河口から約14kmにわたり整備されている。平成30年度からは、水門や支流で途切れている箇所を人道橋で繋ぎ、連続化する整備を進めている。

上下水道の新たな展開

この時代、上水道は昭和63年(1988)に給水普及率100%、下水道は平成6年(1994)に区部概成100%を達成し、普及後の新たな取組みや事業の展開が始まった。
《安全でおいしい水の実現に向けて》
昭和40年中頃から50年代にかけ、水道水がカビ臭いという苦情が多く寄せられるようになった。都はこれらの苦情を受け、江戸川を水源とする金町浄水場の水質浄化対策として、昭和59年(1984)より粉末活性炭処理を行うとともに、平成4年(1992)以降、オゾンおよび生物活性炭による高度浄水施設を順次導入している。その後、利根川水系の浄水場についても順次高度浄水施設の導入を進め、平成25年10月に高度浄水100%を達成している。
さらに都では、平成16年6月に「安全でおいしい水プロジェクト」を立ち上げ、残留塩素の低減化、貯水槽水道の適正管理、直結給水化の普及・拡大等に取組んでいる。
《「第二世代下水道マスタープラン」の策定》
下水道の区部概成100%を目前に控えた平成4年(1992)7月、新たな視点に立って展開する普及後の下水道事業の基本構想を示した「第二世代下水道マスタープラン」を策定した。このマスタープランは、21世紀に向かって実現しようとする下水道を「第二世代下水道」と位置づけ、下水道施設の再構築、合流式下水道の改善、下水汚泥の資源化、再生水(処理水)の利用、下水熱の利用といった施策が位置づけられた。特に下水道施設の再構築については、平成7年度より老朽化対策に合わせて能力不足の解消や耐震性の向上などの事業に取組んでいる。

Ⅵ期2000年〜(平成12年〜)環状メガロポリス構造と国際競争力強化の時代

◆環状メガロポリス構造を支える三環状(中央環状線、外かく環状道路、圏央道)
首都高中央環状線については、中央環状新宿線の西新宿JCT~熊野町JCTが平成19年(2007)12月に開通、その後、平成27年(2015)3月には中央環状品川線(大井JCT ~大橋JCT)の開通により全線が開通した。外かく環状道路は、平成19年(2007)に外かく環状道路の関越道~東名高速区間について、大深度地下を活用した地下方式に変更する都市計画決定がなされ、平成21年(2009)に事業化されて現在施工中である。首都圏中央連絡自動車道については、平成14年(2002)、青梅IC~日の出ICが開通、平成26年(2014)には相模原愛川IC ~高尾山ICが開通し、東京都内区間についてはすべての工事が完了した。

平成12年(2000)4月
「東京構想2000」の策定
平成14年(2002)4月
都市再生特別措置法の公布
平成17年(2005)6月
景観法の全面施行
平成18年(2006)10月
東京都景観条例の公布
平成20年(2008)9月
リーマン・ショック
平成23年(2011)3月
東日本大震災の発生
平成25年(2013)9月
第32回オリンピック・パラリンピックの開催地が東京に決定

社会背景と都市の様相

21世紀を迎えたこの時代は、少子高齢化と迫り来る人口減少が現実的なものとして意識され始めた時代であり、交通バリアフリー法(平成12年)、バリアフリー新法(平成18年)などが制定された。経済的には、平成14年(2002)以降しばらく景気拡大の傾向が続くこととなったが、平成19年(2007)のサブプライム問題に端を発したリーマン・ショックにより世界同時不況に突入し、日本も平成20年度、21年度は実質GDPでマイナスとなった。バブル崩壊後のこの時代は、「失われた20年」とも呼ばれている。
国土政策としては地方分権が推し進められた時代であり、土地対策、東京一極集中問題への対応として首都移転をめぐる議論が本格化し、国会決議、法制化、移転先の適地調査などの整備が進められた。一方で、大都市の国際競争力が問われるようになっていった。
地方分権は、平成7年(1995)の合併特例法、地方分権推進法の制定からその動きがあったが、平成12年(2000)には地方分権一括法が、平成18年には地方分権改革推進法へと続き、多くの機関委任事務が廃止されるとともに、都市整備の事業制度も補助金中心からまちづくり交付金、社会資本整備総合交付金など交付金へと変化していった。また、政府資金に頼らない新たな社会資本整備方式(「新たな公」など)が模索され始めた。
一方、大都市について、平成10年に閣議決定された新しい国土計画「21世紀のグランドデザイン」の中で大都市圏のリノベーションについて言及され、東京圏のリノベーションプログラムが策定され、加えて平成12年(2000)には大深度地下の公共的使用に関する特別措置法が公布(翌年施行)され、大都市圏の大深度における施設整備の道が開かれた。また、平成14年(2002)には都市再生特別措置法が公布・施行され、都市再生緊急整備地域制度が創設、民間プロジェクトにより大都市の都市再生を牽引する仕組みが整えられ、民間活力をいかした大規模な都市整備が行われるようになった。
東京においては、バブル期に盛んに行われた地上げにより、都心3区の人口は、1985〜1995年の10年間で、約9万人減少していた。その後も大幅な回復はなく、この時代、都心の空洞化が深刻な問題となっていた。都心居住は東京の抱える大きな課題の一つであり、平成9年(1997)の都市計画法の一部改正では、地域地区として新しく設定された中高層住居専用地区、さらには高層住居誘導地区などを活用しての地区指定に基づく対応も行われることとなった。
東京への情報・管理中枢機能の集中は続いていたが、激化する世界レベルの都市間競争の時代にあって、国際都市としての魅力という観点からみた都市のあり様が強く意識され、平成16年(2004)の景観法や平成20年(2008)の地域における歴史的風致の維持および向上に関する法律(歴史まちづくり法)の公布・施行なども受け、質の高いビジネス環境、交通インフラとともに、歴史や文化に裏打ちされた都市の魅力が問われ始めた。
一方で、ディーゼル車が排出する浮遊粒子状物質(PM)規制への対応は、東京都をはじめとする大都市を中心に大きな問題となっていたが、国による対策は立ち遅れていた。また、地球温暖化対策が世界的に注目されるようになり、平成10年(1998)の地球温暖化対策の推進に関する法律、平成13年(2001)の環境省の創設、翌12年の「地球温暖化対策推進大綱」と「京都議定書目標達成計画」の策定、さらに平成17年(2005)の京都市議定書の発効へと続いた。平成21年(2009)9月には、政権交代が起こり、「コンクリートから人へ」をキャッチフレーズとした民主党の鳩山内閣が誕生し、同年の気候変動枠組条約第15回締約国会議首脳級会合において、鳩山総理が「1990年比でいえば2020年までに25%の削減を目指す」ことを表明、平成22年(2010)には「低炭素まちづくりガイドライン」が策定された。民主党政権は、道路特定財源の一般財源化などを実施し、公共投資が大きく削減されることとなった。
地球温暖化は、集中豪雨を頻発化させるとともに、台風等の大型化をもたらすようになった。都は平成18年(2006)5月に東京都豪雨対策検討委員会を設置し、その答申をもとに翌19年8月に「東京都豪雨対策基本方針」を策定した。
また、平成16年(2004)10月には中越地震が発生、さらに平成23年(2011)3月には東日本大地震が発生し、関東から東北の沿岸に甚大な津波被害をもたらすとともに、東京電力福島第一原子力発電所の事故が発生した。東日本大地震を受けて、東京都防災会議はこれまでの被害想定を見直し、M8.2 級の大規模海溝型地震等を想定に加えた「首都直下地震等による東京の被害想定」を平成24年(2012)4月に公表した。これらを受けて、公共施設の耐震対策が推進されることとなった。

都市づくりの構想・計画とそれを支える制度

環状メガロポリス構造

平成11(1999)年4月、石原慎太郎が第14代都知事に就任する。石原知事は、国家や都市の繁栄と安全のためには、日本も東京も国際社会の中で強い影響力を発揮することができるグローバルプレーヤーであり続けることが重要であるとの思想であった。そして、21世紀に向けてわが国が選択すべき道は、莫大な費用を投じて首都機能の移転を進めるのではなく、東京を中心としたメガロポリスが持つ潜在的な力を引き出し、日本を再生することだという考えであった。
同年9月の参議院「国会等の移転に関する特別委員会」に参考人として呼ばれることとなった石原知事は、都市計画担当部局の責任者を呼び、対案作成の指示を出す。それを携えて知事は、集積と集中こそがコンピューター時代の文明工学であり、政治と経済は不可分である。東京というもののダイナミズムに国家的意味があるとの主張を行った。そして、外かく環状道路や圏央道の整備、羽田の国際化をはじめ国際空港を整備し直すことで、首都圏はさらに機能的になる。そのための費用は首都移転費用として想定される12兆円の半分で済むと論じた。
こうした知事の発言を受け、都の都市計画局は、まず「東京都市白書2000」を公表した(平成12年)。この白書は、東京が目指す「国際都市」として、経済の活力と影響力、生活と環境、交流と連携、象徴性とガバナンスの4つの要素が重要との考えのもと、都市づくりの面から取り組むべき課題を抽出した。そして、大幅な経済成長が望めず、財政制約を受け容れざるを得ないこれからの時代において、情報化や環境をはじめとする様々な要請に応えながら、魅力ある暮らしやすい都市づくりを行ううえでは、共有し得る明確なビジョンのもとで、公と民の連携で進める「政策誘導型の都市づくり」へ発想を転換する必要があると提起した。
その上で、都は政策誘導型の都市づくりへの転換を図るために、中長期の都市づくりのあり方やその実現に向けた戦略的な取組みを推進していくため、平成13年10月に「東京の新しい都市づくりビジョン(以下、都市づくりビジョン)」を策定した。策定にあたって、都は都市計画地方審議会に諮問し、同審議会は調査特別委員会を設置して、より専門的な見地から調査審議を行い、平成13年(2001)3月に答申を取りまとめた。都市づくりビジョンはこの答申を踏まえて策定されたものである。
この都市づくりビジョンのポイントとなる点は2つある。一つは都市構造「環状メガロポリス構造」である。これまで東京は、主に業務機能に着目し、都心部への集中を分散させることに主眼を置き、職住のバランスがとれた都市構造を目指す政策を推進してきた。しかし、首都機能を担いながら、活発な都市活動を展開している東京圏の現状を踏まえると、都の区域だけで目標とする都市構造を語るのは困難であり、東京圏全体に視野を広げることが不可欠となってくる。また、業務機能だけに着目するのではなく、居住、産業、物流、防災など都市が果たす多様な機能に着目して都市構造を提案することも重要となる。こうした視点に立ち、センター・コア、東京湾ウォーターフロント都市軸、水と緑の創生リング、核都市連携都市軸などからなる東京圏の都市構造を示すとともに、5つのゾーンごとに都がとるべき戦略的な都市づくりの取組みを明らかにしている。とりわけ、センター・コア再生ゾーンにおいて、都心から副都心へ業務機能を分散させるという従前の考え方を改め、都心と副都心は相互に機能を分担し合いながら、エリア全体で国際ビジネスが育つ環境を創造していくことを提案しており、この点が最も大きな特徴となっている。
二つ目は、政策誘導型の都市づくりを推進していく上で、とりわけ民間部門が果たす役割を重視すべきと提起した点である。地域の特性を生かしながら質の高い都市づくりを展開していくためには、都民・NPOや企業などの民間部門の参加を促進し、公民連携によるプロジェクトを推進したり、民間によるプロジェクトを計画的に誘導していくことが不可欠である。そのために、公共性とはもっぱら行政が判断し実施するといった考えから脱却して、行政、都民・NPO、企業など多様な主体に共通する利益こそが公共性であるという認識に立ち、ルールやガイドラインをつくり、互いにこれを尊重し合うことが、これからの都市づくりでは極めて重要となってくることを強調した。その上で、都の行政の主体性に触れて、都市づくりに関わる法制度の限界を超えて、都独自の制度の制定に取り組むべきと提案した。
他方、同じ頃、石原都政全体の長期総合計画となる「東京構想2000 千客万来の世界都市を目指して」の策定作業を政策報道室が進め、平成12年(2000) 4月に公表した。同構想が提唱する「環状メガロポリス構造」は、都市計画局が策定する都市づくりビジョンと十分に整合を図りながら検討が行われたもので、両者が共有する都市構造となっている。

政策誘導型土地利用への転換

都市づくりビジョンを受け、都では平成13年(2001)10月、東京都都市計画審議会に対して「東京における土地利用に関する基本方針について(東京の新しい都市づくりビジョンを踏まえた土地利用のあり方)」を諮問し、翌14年3月に答申を得た。
この答申では、①環状メガロポリスの実現、②国際ビジネスセンターの形成、都心居住の推進、木造住宅密集市街地の整備、質の高い郊外住宅地の形成など地域ごとの戦略的課題への対応、③都市空間としての質を高めるための骨格的な緑の軸の形成等と合わせた良好な街並み景観形成、といった課題に対応した、政策誘導型の土地利用施策を進めていく必要性が示された。また、街並み、環境、安全性などに関わってくる土地や建物に対して的確かつ厳格な規制を実施する一方、政策目的に合致する開発計画については規制を弾力化し、公共の利益を実現する必要があるとしている。
これを受け平成14年(2002)7月、政策誘導型の都市づくりを進めていくための「用途地域等に関する指定方針及び指定基準」を策定し、区市町に対し、原案策定の依頼を行った。
「用途地域等に関する指定方針及び指定基準」では、都市づくりビジョンで示された目指すべき都市像を実現するうえで必要となる土地利用の誘導方策を①都市活力の維持・発展、②豊かな都市環境の形成、③安全で健康に暮らせる生活環境の形成という3つの側面から示すとともに、各ゾーンの用途地域等に関する設定方針を定めている。
特徴的な点は、目指すべき市街地像を定め、その市街地像を実現するうえで必要となるまちづくりのルールを地区計画などで明確にしたうえで、用途地域の見直しや容積率の特例制度など様々な土地利用制度を機能的に連携させ、総合的な土地利用の推進を図ることを基本としていることである。
これらに基づく用途地域等の見直し案については、区市町の原案作成を受け、公聴会等の諸手続きを経て、平成16年(2004)5月、東京都都市計画審議会に付議され、同年6月、都市計画変更の決定・告示がなされた。
当該見直しによる用途地域の変更面積は、区部:約12,000ha(約21%)、多摩部:約8,000ha(約17%)に及ぶ。
そして、この見直し以降、都では、用途地域の一斉見直しは必要ないとし、今後の用途地域の見直しは、都市計画マスタープランとの整合の点から地区計画とセットで、いい換えれば目標とするまちづくりの姿とセットで、必要に応じて個々に用途地域の変更を行うこととした。

都市開発諸制度活用方針

都市づくりビジョンに示された、政策誘導型都市づくりを推進するための方策として策定されたのが、「新たな都市づくりのための都市開発諸制度活用方針」(平成15年6月策定、平成26年4月改定)である。
ここでは、都市づくりビジョンに示されたそれぞれの地域や拠点の将来像に応じたメリハリのある制度運用を図ることをねらいに、特定街区、再開発等促進区、高度利用地区、総合設計の4制度(以下、都市開発諸制度)の戦略的活用を図るエリアとして、都心、都心部周辺、副都心(業務商業市街地ゾーン・複合市街地ゾーン)、核都市(業務商業市街地地区・複合市街地地区)、一般拠点地区、職住近接ゾーンを定め、それぞれのゾーン、地区などにおいて、緩和した容積の部分に導入すべき用途を育成用途として設定し、その基本的考え方や具体の運用方針を事業実施者等に分かりやすく解説している。
特に、従来、容積率割増部分を業務用途にあてることを認めていなかった都心や都心周辺部については、育成用途の整備を条件として、業務用途にあてることができるものとしたことにより、都心部の開発が加速されることとなった。

都市再生特別措置法

バブル崩壊後の1990年代、東京はじめ大都市の都心部は、地上げにより虫食いとなった土地が随所に広がり、コミュニティの崩壊を含め、新たな都市問題が急浮上した。他方、不動産への過剰な投資が不良債権を生み、その処理が経済政策上喫緊の課題として認識されるようになった。小渕内閣時代の平成12年(2000)2月、政府内に都市再生推進懇談会が設置され、石原知事ほか、学識者、民間人が参加して意見を交わした。この中で都は、三環状道路の整備、容積緩和をはじめとした都市計画制度の特例等を国に提案し、それらを踏まえ、同年11月に提言が行われた。
これを受け、平成13(2001)年4月に発表された「政府・与党緊急経済対策」では、不良債権処理促進策などとともに、土地流動化策が柱の一つとされた。首相を本部長とする都市再生本部の設置により、大都市圏で再開発プロジェクトに重点投資することなどが内容となっており、都市に対して本格的に政策の目が向けられるようになってきたことを端的に物語るものとなった。
さらに、平成13年4月に発足した小泉内閣のもとで、内閣に都市再生本部が設置されるとともに、翌14年4月に都市再生特別措置法が公布、6月に施行され、都市再生緊急整備地域に指定された区域内で都市計画の特例が可能となる途(都市再生特別地区)が拓かれたほか、民間による都市計画の提案が可能となった。
都ではこの仕組みのもと、首都機能を高め、国際競争力の強化や都市の魅力づくり資する優良な民間プロジェクトを促進するため、平成14年に7地域約2,400haの指定を国に申し入れ決定された。その後、都心部と臨海部の統合、渋谷駅周辺、品川駅・田町駅周辺の追加などを経て、現在8地域約2,968haとなっており、この地域の中で、38地区(平成28年4月19日現在)の都市再生特別地区の都市計画決定がなされ、民間の創意を活かした都市再生プロジェクトが進められている。
また都は、都市再生特別措置法により創設された新たな都市計画特例の制度である都市再生特別地区の運用にあたって、事業者の創意工夫をいかし、本制度の積極的かつ幅広い活用を図るため、事業者の提案に対して、検討会、審査会からなる都の審査体制をつくり、関係自治体、関係局等との調整を図るなど、都独自の運用を行っている。

魅力ある市街地景観の創出

政策誘導型都市づくりに向けては、先に示した都市開発諸制度活用方針に加え、美しく、歴史・文化に支えられた街並みを創出していくための独自のルールづくりも積極的に展開した。
《東京のしゃれた街並みづくり推進条例》
東京のしゃれた街並みづくり推進条例は、平成15年(2003)10月から施行された。この条例では、街区再編まちづくり制度、街並み景観づくり制度、まちづくり団体登録制度が創設され、地域住民の協力に基づく地域の特性をいかした個性豊かで魅力的な街並みの実現が推し進められることとなった。
この制度に基づき、平成25年度までに、武蔵小山駅東地区(平成16年9月指定)、南池袋二丁目地区(平成16年12月指定)、新宿六丁目西北地区(平成19年3月指定)、ひばりヶ丘駅北口地区(平成22年8月指定)、環状第二号線沿道新橋地区(平成25年3月指定)が街並み再編地区の指定を受け、地域住民の手による地域の特性をいかした魅力的な街並みづくりが進められている。
《東京都景観条例・東京都景観計画》
平成16年(2004)6月に景観法が公布(翌年7月全面施行)され、景観行政団体の指定を受けたものが景観計画を定めることが可能となった。都ではこれを受け、平成18年に東京都景観条例を公布するとともに、「東京都景観計画」を策定し、平成19年4月から施行し、美しく風格のある東京の再生を目指した取組みを進めている。
景観計画の基本となる景観計画区域は東京都全域が指定されているが、特段の景観配慮が求められる地域として、6つの景観基本軸(臨海景観基本軸、隅田川景観基本軸、神田川景観基本軸、玉川上水景観基本軸、国分寺崖線景観基本軸、丘陵地景観基本軸)および文化財庭園等景観形成特別地区(浜離宮恩賜庭園、新宿御苑、六義園、小石川植物園など9施設の外周線からおおむね100〜300m)、水辺景観形成特別地区(臨海景観基本軸、隅田川景観基本軸の区域内で特に重点的に取組み区域)、小笠原(父島二見港周辺)景観形成特別地区の3つの景観形成特別地区を指定している。
また、都市開発諸制度などを活用して計画される大規模建築物等を中心に、魅力ある景観が形成されるよう建築物の壁面の位置や規模、色彩、屋外広告物等を適切に誘導することを目的として、大規模建築物等景観形成指針および大規模建築物の建築等に係る事前協議の景観形成基準を定めた。この基準は、風格のある都市景観の形成を図るための誘導指針であり、都市開発諸制度活用方針の一部として運用するものである。この中で、国会議事堂、迎賓館、明治神宮聖徳記念絵画館および東京駅丸の内駅舎の眺望の保全に関する景観誘導などの眺望保全の基準を明確化している。
また、都市づくりと連携した景観施策にも注力しており、都市開発諸制度などを活用する建築計画等を対象に、都市計画決定等の手続きに先行した事前協議を義務づけ、事業の企画・提案段階から景観に関する協議を行うことにより、周辺市街地の景観と調和した建築物等の誘導を進めることを謳っている。

ディーゼル車対策

平成11年(1999)4月、ディーゼル車対策を公約に掲げる石原知事が就任すると、都はディーゼル車対策に積極的に取組み始めた。すぐさま排出ガス規制の強化、試験方法の見直し、自動車NOx法の見直しなどからなる「平成12年度 国の施策及び予算に対する東京都の提案要求」を行った。
短期間における様々な取組みを行う中、平成12年(2000)12月には東京都公害防止条例を30年ぶりに全面改正し、ディーゼル車走行規制、低公害車の導入義務など自動車公害対策を強化した都民の健康と安全を確保する環境に関する条例(通称:環境確保条例)を公布・施行した。この条例により、低公害車の導入義務化、不適合ディーゼル車の運行禁止、不正軽油を燃料として使用・販売の禁止、自動車Gメンの設置など、都独自の自動車公害対策を行うこととなった。

立体道路制度・大深度地下利用制度

立体道路制度は、幹線道路等の整備促進と土地の高度利用に関する取組みの一つで、道路の区域を立体的に定め、それ以外の空間利用を自由にすることで、道路の上下空間での建物の建築等を可能にし、道路と建築物等との一体的整備を可能にする制度である。具体的には、道路法、都市計画法、建築基準法の3つの法律を一体的に運用する制度であり、平成元年(1989)の道路法、 都市計画法、建築基準法の改正により制度化された。
一方、大都市における浅い地下の利用は非常に混雑してきており、昭和62年(1987)頃から土地所有者等による通常の利用が行われない深い地下の利用の本格的検討が始まった。そのような中、大深度地下を有効に活用し、公共の利益となる事業が円滑に実施されるよう、平成12年(2000)5月に大深度地下の公共的使用に関する特別措置法(大深度法)が公布され、翌13年4月に施行された。
大深度法の対象地域は、政令により三大都市圏(首都圏、近畿圏、中部圏)の一部区域が指定されている。また、対象事業は、道路、河川、鉄道、電気通信、電気、ガス、上下水道等の公共の利益となる事業とされており、大深度地下利用制度の創設により、大深度空間の利権の取り扱いが制度化され、道路のみならずリニア新幹線などにも活用の途が開かれた。
東京では、立体道路制度を活用して、環状二号線(虎ノ門〜新橋間)の整備が進められるとともに、大深度地下利用制度を活用して、東京外かく環状道路(関越道〜東名高速間)の工事に着手するなど、これまで進展することができなかったプロジェクトが動き出すことに繋がった。また、計画中のリニア新幹線の整備も、大深度地下利用制度の活用なくしてはありえないプロジェクトである。

代表的な都市づくり

環状メガロポリス構造を支える交通インフラの強化

この時期、環状メガロポリス構造を支える交通インフラとして、三環状(中央環状、外かく環状、圏央道)の整備が精力的に進められた。
首都高中央環状線については、中央環状新宿線の西新宿JCT〜熊野町JCTが平成19年(2007)12月に開通、その後、平成22年(2010)に大橋JCT〜西新宿JCTが開通、平成27年(2015)3月には中央環状品川線(大井JCT〜大橋JCT)が開通、これにより中央環状線の全線が開通した。
外かく環状道路(関越道から東名高速まで)については、石原知事就任後の平成12年(2000)より地元住民団体との話し合いを開始し、平成14年には、沿線住民、国、都が話し合うPI外環沿線協議会が設置された。そして平成15年(2003)には、従前の高架方式(昭和41年決定)から大深度地下を活用した地下方式に変更する方針を公表した。さらに話し合いを進めて、都市計画審議会の議を経て、平成19年(2007)に都市計画変更を決定した。さらに、平成21年(2009)4月に開催された国土開発幹線自動車道建設会議で整備計画が決定され、事業化となった。平成24年(2012)に着工式を行い、現在、鋭意建設工事が進められている。
首都圏中央連絡自動車道については、平成14年(2002)、青梅IC〜日の出ICが開通、平成26年(2014)には相模原愛川IC〜高尾山ICが開通し、東京都内区間についてはすべての工事が完了した。

羽田空港の再拡張・国際化

羽田空港は国内最大の拠点空港として発着便数、旅客数ともに増加を続け、ほぼ限界状態での運用が強いられる状況にある。また、わが国の国際競争力の維持向上や経済活性化のうえで、羽田空港の重要性がますます高まる中、再拡張事業が実施された。
この事業は、空港島の南の東京湾上に新設する4本目の滑走路(D滑走路)、空港の西側に建設する国際線ターミナル地区、新管制塔の整備等で構成された。新D滑走路は2,500m×60mであり、空港の南の海上に配置され、多摩川からの水の流れをせき止めないよう約1/3にあたる1,100mは桟橋構造、残りが埋立て構造のハイブリッド構造となっている。この滑走路は平成19年(2007)3月に着工され、平成22年(2010)10月に供用開始された。
羽田空港国際線ターミナルについては、翌23年からターミナルビルの改修、増築が進められ、平成26年(2014)に拡張部一般エリアの供用が開始された。羽田空港の国際化については、現在も発着便枠の増加などが進められており、今後もさらなる発展が期待されている。

公共輸送ネットワークの充実

この時期には、先の時期に計画決定、工事着手されていた第三セクターによる新しい路線が開通し、東京の公共輸送ネットワークの充実が図られた。
《都営地下鉄大江戸線》
都営地下鉄大江戸線(環状部)は、東京都地下鉄建設(株)により建設工事が進められたが、施設の完成により東京都交通局が譲渡を受け、平成12年(2000)12月に都営地下鉄のネットワークを構成する4番目の路線として開業した。都区部における2本目の環状鉄道として鉄道利便の向上と沿線の都市開発の促進に大きく貢献している。
《つくばエクスプレス》
常磐新線(通称:つくばエクスプレス)は、平成17年(2005)8月に秋葉原~つくば間が開業した。「大都市地域における宅地開発及び鉄道整備の一体的推進に関する特別措置法(宅鉄法)」により、鉄道整備と沿線の宅地供給を同時的に進めた点に大きな特徴がある。都内では、六町駅周辺や秋葉原駅周辺で区画整理手法による宅地開発・都市開発が行われた。
《りんかい線》
東京臨海高速鉄道(りんかい線)は、平成14年(2002)12月に全線開業した。新交通ゆりかもめとともに臨海副都心へのアクセス路線として構想され、一部区間で旧国鉄貨物線施設を転用して建設が行われた。これにより、新木場から東京テレポートを経由して大崎、さらにJR埼京線と繋がる広域ネットワークが実現し、臨海副都心へのアクセスは格段に利便性が向上した。

新幹線品川駅の開業

平成15年(2003)10月、東海道新幹線の都内二つ目の駅として品川駅が開業した。新幹線品川駅の開業は、新幹線の輸送サービスの向上、東京駅の混雑緩和にも繋がった。また、東海道新幹線の品川駅開設に合わせ、品川は東京の南の玄関口として副都心に準ずる高度利用を図る地区として、駅前広場や道路、公園等の都市基盤整備が土地区画整理事業により行われ、大きな変貌を遂げた。
また、品川は中央リニア新幹線の東京ターミナルとして位置づけられ、2027年の開業を目指し、平成28年(2016)1月より現在の新幹線品川駅の40m下を利用した駅の工事に着手している。
一方、品川駅・田町駅周辺は平成23年(2011)に特定都市再生緊急整備地域として指定され、「羽田空港やリニア中央新幹線などによる国内外へのアクセスに優れた立地、東京湾からの海風・緑地・運河・下水熱などの豊富な環境資源をいかし、環境に配慮した業務・商業・交流・宿泊・居住などの多様な機能が集積する東京サウスゲートを形成」する方向性が示され、都は平成26年(2014)9月、本地域内において都市開発諸制度等を活用する開発の上位計画となる「品川駅・田町駅周辺まちづくりガイドライン2014」を策定した。同ガイドラインでは、将来像を実現するため、品川駅再編整備、品川駅西口駅前広場の再整備および北口広場の整備、新駅の設置、環状4号線の整備などとともに、地域整備の核として優先的に整備を進める優先整備地区を以下のように定めている。

品川駅北周辺地区:
大規模な低未利用地を活用し、最先端のビジネス環境を形成
品川駅西口地区:
新たな価値を創造する場となるMICEの拠点の形成
芝浦水再生センター地区:
環境都市づくり、緑豊かなオープンスペースの形成
品川駅街区地区:
品川駅とその周辺が調和したまちづくりの実現

センター・コアの再生

多心型都市づくりの時代にはなかなか進まなかった都心の再生が、都市づくりビジョンにおいてセンター・コアの重要性が位置づけられたことにおいて、大手町地区、大手町・丸の内・有楽町地区(大丸有地区)、六本木三丁目東地区、淡路町二丁目西部地区など、都心各地で急速に進展した。
一方、都市再生特別措置法に基づく、都市再生緊急整備地域として、東京都心・臨海地域、品川駅・田町駅周辺地域、渋谷駅周辺地域、新宿駅周辺地域などが指定され、同年、アジアヘッドクォーター特区として国家戦略総合特区にも指定されたことを受け、これらの地域の都市再生も動き出している。
以下、幾つかの特徴的な事例について概述する。
《大手町・丸の内・有楽町地区(大丸有地区)》
大丸有地区では、国際ビジネスセンターの形成、快適な都市空間の形成、新たな都心景観の形成、エリアマネジメントの推進などを目標として再開発を推進する中で、類例のない特色あるまちづくりが進められている。
大手町合同庁舎第1号館・2号館跡地を中心とした大手町地区では、都市再生プロジェクト第五次決定(平成15年1月都市再生本部決定)に基づき、大手町合同庁舎第1号館・2号館跡地を活用したにぎわいのある国際的なビジネス拠点としての再生を目指したプロジェクトが実施されている。
本プロジェクトの特徴は、土地区画整理事業と市街地再開発事業とが一体となった段階的かつ連続的な施行である。
大手町土地区画整理事業(施行面積約13.1ha)が平成17年(2005)3月に都市計画決定されたことを受け、大手町一丁目地区第一種市街地再開発事業(平成17年都市計画決定)、大手町一丁目第2地区第一種市街地再開発事業(平成21年3月都市計画決定)、大手町一丁目第3地区第一種市街地再開発事業(平成24年12月都市計画決定)、大手町二丁目地区第一種市街地再開発事業(平成25年6月都市計画決定)が、まさに段階的・連続的に実施され、土地区画整理事業と市街地再開発事業の一体施行による国際ビジネス拠点の実現が目指されている。
一方、明治生命館(重要文化財指定)、日本工業倶楽部(登録有形文化財)といった歴史的建築物の保存と建て替に伴う機能更新の均衡をいかに保つかが大きな課題としてあがった地区では、「東京都特定街区運用基準」の一部改正(1999年)により創設された重要文化財保存型特例を活用している。
また、東京駅赤レンガ駅舎の復原とその周辺の開発にあたっては、新たに創設された「特例容積率適用地区」が活用されている。「特例容積率適用地区」の運用にあたっては、都市計画で定める地区指定について「共通の基盤に支えられた区域」に加え「共通のまちづくり目標を持つ一体の地区計画の区域内」としたうえで、この制度の運用面の難しさや対象地域により都市計画的な意義が異なることへの対応から、対象地域を限定して「大手町・丸の内・有楽町地区特例容積率適用地区指定基準」を制定(2002年)していることに大きな特色がある。
《環状第二号線新橋・虎ノ門地区》
環状第二号線新橋・虎ノ門地区の市街地再開発事業の大きなポイントは、平成元年(1989)に創設された立体道路制度を活用した環状二号線の整備である。環状二号線は、昭和21年(1946)に、戦災復興都市計画道路として、新橋から神田佐久間町までの間、約9.2kmについて幅員100mで都市計画決定された。戦災復興事業自体の縮小により、昭和25年(1950)には、幅員が現在の計画と同じ40mに変更され、これまでに虎ノ門から神田佐久間町までの間、約8kmを外堀通りとして完成、供用された。しかし、虎ノ門~新橋間は、用地買収の難航などで長らく凍結されていた。
環状第二号線新橋・虎ノ門地区は、港区の北部に位置し、環状二号線の内、未整備の新橋~虎ノ門間約1.35kmを中心とした区域である。環状二号線は、臨海副都開発の一環として臨海部への延伸が計画決定されて以降、臨海部と都心を繋ぐ幹線道路としての重要性が高まり、未整備区間の整備が急務とされた。新橋・虎ノ門地区は、都市計画制限によって建物の老朽化等が進む一方で、権利者は現地での生活再建を強く希望した。このため、再開発事業により移転先となる再開発ビルを地区内に建設して道路空間を確保し、道路整備に立体道路制度を活用するという手法をとった。
平成10年(1998)12月に立体道路制度の適用を受け、約7.5haの市街地再開発事業を都市計画決定し(その後、平成12年6月に約8.0haに変更)、環状二号線の都市計画変更(平面街路から地下トンネルへの変更)がなされた。環状二号線(新橋~虎ノ門間)は平成26年(2014)3月に開通し、虎ノ門街区の再開発ビルは平成26年(2014)5月に完成した。
地区内の道路は、通過交通機能(地下)と地先サービス機能(地上)を分離する構造で、地上部には広幅員の歩道を生かして賑わい空間を創出する取組みが公民連携により進められている。
《渋谷駅周辺地域》
渋谷駅周辺地域は、都市再生緊急整備地域(平成17年12月)、特定都市再生緊急整備地域(平成24年1月)等の指定を受けた139haの区域である。
当該地域は、駅周辺に繁華街が広がり、商業地としても一定の賑わいをみせていたが、駅利用の不便さ、商業ビルの老朽化などの課題を抱えていた。再整備のきっかけとなったのは地下鉄副都心線の建設(平成13年着工、平成25年に東横線の地下化・相互直通運転化)である。副都心線渋谷駅の新設を機に周辺まちづくりの機運が高まり、地元区による調査等を経て、都市再生の取組みが具体化した。都市再生緊急整備地域の指定に際して、周辺基盤の再編を契機に、交流・発信機能、クリエイティブコンテンツ産業等の先進的な業務機能、産業育成機能など国際競争力強化に資する都市機能の充実・強化を図ることや、公共施設と建築物の一体的整備によって交通結節点機能を再編することが地域整備の目標に掲げられた。
現在、地下鉄銀座線渋谷駅の移設、JR渋谷駅埼京線ホームの移設、駅前広場、駅自由通路等の基盤整備が2027年の完成を目指して進められている。また駅周辺では、これらに合わせて、渋谷駅街区、道玄坂一丁目駅前地区、渋谷駅桜丘口地区など、多くの再開発プロジェクトが進められている。これらは、公民連携によるまちづくり方針のもと、エリアマネジメントの取組みを含めて、複数の鉄道事業者の主導により進められている点に際立った特色がある。